原城を歩くー島原、天草 逍遥ー
1 南島原
島原の乱の舞台となった原城(はらじょう)は数ある日本の城跡の中でも特異な場所と言われている。
城の姿は跡形もないが、丘全体が当時のまま手つかずで残されているからという。
なぜ手つかずのまま? 原城に行ってみればわかる。
ガイド氏いわく、「籠城者はみな処刑され、何万もの遺体が無造作に遺棄されましたから、今でもこの足元を10センチも掘れば人骨が出て来ますよ」。しばし絶句。
(この時、私はそれを信じがたい気持ちで聞いたのだが、2000年頃、原城を訪れた友人は実際にそのような光景を目にしていた。→参考①)
土地の再開発や観光地化に余念ない日本にあって、おそらくはその血塗られた場所の祟りを恐れ(?)、あるいはそっとしておこうとの配慮から、現在も尚この城跡は手つかずのままなのだろう。有明海周辺のこの一帯は〝雲仙天草国立公園〟と名付けられる風光明媚な地域だ。そこに時を超えて今に残る城跡なのである。
400年前の惨劇など知らぬ気に、城跡には陽光が降り注ぎ、海からの爽風が吹きぬけていく。
なんというのどかさだろう。
― 歴史の惨劇と美しい風景とのギャップ。
原城に初めて訪れた時、一番感じたのはそれだった。
この、最初の訪問は、2008年に長崎で「ペトロ岐部と187殉教者」の列福式が行われた年のことだ。(列聖とは、カトリック教会が故人を〝福者〟と認定すること)
日本人の列福は140年ぶりで、しかも前回(1867年)は禁教時代だった為、列福式はローマで開かれたのだった。
めったにないイベントに私は参加を即決し、ついでに九州北部一円の切支丹史跡も出来る限り歩くことした。
九州入り→大分市内巡礼→岐部公園→長崎市内巡礼→生月、五島巡礼→島原、天草巡礼、とフルコースの10日間一人旅である。
上記、原城でのこと。同じガイド氏に、「長崎での列福式開催、南島原でもさぞ盛り上がってるでしょう?」とうかがうと、「いやー、そうでもないんですよ」の返事。「むしろ無関心というか・・。なにせ、当時の農民漁民は全て処刑されましたからね。今、この土地にいるのは、小豆島から移住してきた人達の子孫なんですよ」。
えっ! またしても絶句であった。
島原の乱が制圧され、一揆軍3万7千人は処刑。結果、この南島原一帯は只只、だだっ広い無人地帯となったわけだ。目を閉じて想像してみた。この南島原の東から西までが、人影もなく、人声も途絶えたゴーストタウン。原城には数万の死屍が累々と残り・・。
その土地の歴史は、現地に身を置いてこそ体感できるものがある。
ついでながら、この時私は、2キロ先にある有馬晴信の日野江城跡にも足を伸ばし、往時の栄光(居城の絢爛豪華さを遠藤周作が描いている。→参考②)を偲んだのだが、それから数年後、山梨の初鹿野に晴信公終焉の地を訪ね、ひっそりとした村の、その谷底に落ちていく雪を眺めながら、晴信公の孤独をわが事のように感じたのだった。それが2012年の晴信祭につながったのだが、それはこの日の島原巡礼が端緒だった。→有馬晴信公没後400年祭
さて、原城を歩いた日、私は南島原の旅館「城」に一泊した。当時、島原の乱を描いた『出星前夜』飯嶋和一著(→参考➂)が話題になっていた。旅館のご主人が「飯嶋さんはうちを定宿にされてました」とおっしゃる。確か飯嶋氏は長崎の新聞記者を務めていらしたはず(→参考④)。仕事柄、島原にも足繁く通ったにちがいなく、それで大著を物されたのだろうと思った。羨ましい話である。
2 天草
島原逍遥のあと、私は有明海をはさんだ対岸の天草にも出かけた。
天草の旅も実に感慨深い旅だったが、ここでは島原の乱にしぼって記載しておきたい。特に一揆軍の精神的土壌について。
改めて島原の乱の経緯を概略したい。
転封となった有馬氏に代わり島原藩主となった松倉勝家は通常の二倍とも言える過酷な年貢取り立てをした。それに加え激しい切支丹弾圧、更に飢饉も重なり、民衆の怒りはつのっていく。同時期、対岸の天草地方でも唐津藩(寺沢堅高)の圧政に民衆は苦しんでいた。旧藩主有馬晴信、小西行長の浪人らが中心となり、両地域の長老格が津島(談合島)で会談を行い、16歳の天草四郎を総大将として民衆蜂起を決定した。
1637年12月11日(寛永十四年十月十五日)有馬代官所にて代官を殺害。その後、天草各地の城を急襲するなど転戦した後、幕府軍に追われる形で天草一揆は島原に向かい、島原、天草両派が合流し、廃城となっていた原城に3万7千人が籠城した。(その半数は女性と子供達)。
幕府軍はその数倍の兵をもって討伐に向かった。ところが城はなかなか陥落できない。理由として、幕府軍が近隣の大名領から招集した寄せ集め兵で成り立っていたこと、片や一揆軍は団結力が強固だったこと、参謀が旧藩主の浪人で戦略に長けていた事が挙げられるし、何より「原城」は有明海を背にした自然の要塞だった。
焦った幕府は老中松平信綱を中心とする追加軍を派兵。最終的には幕府軍13万人が一揆軍に対峙した。一揆側は長期戦による疲労と空腹とで士気も下がり、幕府軍の最終的な総攻撃を受けて落城した。翌年4月12日のことだった。
天草四郎は討ち取られ、その生首は参謀らとともに獄門に掛けられる。一揆軍は皆殺しとなった。
天草では各地に激戦の跡を見ることができる。
一揆軍が攻撃した富岡城近くには「富岡切支丹供養碑」や「天草四郎乗船の地」があったり、急襲した本渡城跡には「殉教公園」Ⓑがあり、キリシタン殉教者の墓の他、一揆軍の死者の塚もある。その近く、激戦地「祇園橋」Ⓒはいまなお古めかしい石橋で、当時の様子が偲ばれる。橋のたもとには「天草の乱激戦之跡」Ⓓの碑がある。
これらの史跡は天草の西、下島と言われる地域だが、更に東、上島に向かう。ここは原城のまさに対岸に当たる。(Ⓐ図を参照ください)
天草一揆の拠点となった「上津浦」をゆっくり歩いてみた。(Ⓐ図下部に「上津浦」とある場所)
歩いて2キロの所に「旧南蛮寺」があるという。現在の「正覚寺」である。
田園風景のなか、ゆるい坂道をてくてくと歩き「正覚寺」の山門を入る。教会は1589年に建立されたそうだ。そして、1614年バテレン追放令により破壊されるまで、信徒3500人を擁する天草上島地区の中心的教会だったという。それを物語るように、昭和60年、キリシタン墓碑が本堂解体作業中に発見された。中の1基の端部にはIHS(イエズス会紋章)・干十字のほか、慶長11(1606)年の年号等々が刻まれていた。
境内には、十字架のついた小さな納棺堂があり、墓石が丁寧に安置されていたⒺ。住職のお気持ちが有難い。
Ⓔ屋根の矢切(三角部分)に十字架 内部も美しい
また、境内には更に「南蛮樹」!もあった。ナギの木である。天に向かって真っ直ぐに聳えている。キリシタン時代に神父(コエリョとの説も)が海外から持ち込んだと言われ、樹齢400年以上という。
まだキリシタン宗門が繁栄を続けていた時代だ・・。植樹するその中にどんな宣教師、修道士の顔があったのだろう・・。
そんなことを思い、後ろ髪を引かれつつ山門を出た。
坂道を下り、まっすぐ歩くと港へと戻れる。そこは天草一揆の出航の場所だ。彼らにとって、南蛮寺のあるこの界隈は、長い間心の拠り所だったに違いない。 実際、蜂起の頃、既に南蛮寺は破壊されていたが、一揆軍が拠点としたのは、ほど近い所にある上津浦古城だった。
島原も、重要拠点は「有家」「南島原」「口之津」「加津佐」等、教会やコレジオ、セミナリオ等の立ち並ぶキリシタンゆかりの地ばかりだ。そしてこの上津浦もまた・・。ついでに言えば、南島原同様、乱の鎮圧後はこの天草上島も無人地帯となったのだった。
藩の圧政に耐えかねた領民による一揆ではあるが、精神的土壌はキリスト教信仰であったことを確信する。
南島原滞在中、市民シンポジウムが開かれていて、古巣馨神父(隠れキリシタンの子孫)の講話を聴く事ができたが、神父は「乱も終盤になると、一揆軍は城に撃ち込まれてくる弾薬を十字架に鋳造し直していたのです」とおっしゃった。「戦争の象徴を平和の象徴に変えていたのです」と。丁度弾薬一個分の十字架が多数出土したのだという。そして遺体の口からこの小さな十字架が見つかることもあるという。まるで聖体拝領のようではないか。
カトリック教会は、剣を持って戦った信徒を殉教者とは認めない。だから、犠牲者3万7千人のうち、誰一人殉教者とはしないし、まして福者に加えられることもない。
けれど、現地を歩き、乱のディテールを知れば知るほど、天草、島原の人々が剣を取らざるを得なかったその苦境と、切実な信仰心が胸に迫ってくる。
以上、昔の旅行メモを引っ張り出して原稿を書いてみた。
島原の乱はやはり興味が尽きない。
『吉祥寺キリシタン研究会通信』第六号(2021/09/11)掲載文をここに転載した。
⇦エッセイトップページへ参考①
『吉祥寺キリシタン研究会通信』第六号より、佐野たかね氏「私の原城」の抜粋
「(前略) 原城には数回訪れていますが、初めて行ったのが今から約20年程前。家族で長崎に旅行した時のことでした。最初に降り立った「原城」は、何とも言えない淋しさと虚しさが漂っておりました。小高くなっている「原城」の端に行くと、小さな穴がいくつか掘ってあり、その中に人骨が埋まっておりました。又、小さな十字架や、おメダイがボロボロになって散乱していたのです。その時の驚きは何と言ったらいいか分かりません・・・。発掘調査が1992年辺りから少しずつ始まっていたらしいのですが、こんなに無造作に人骨がそのままになってしまっているなんて、信じられない思いで、それを眺めておりました。心は400年前にタイムスリップしたかのように、「今」を生きている気がしませんでした。(後略)」
参考②『銃と十字架』遠藤周作著
参考➂『出星前夜』飯嶋和一著
700頁の大著である。2008年度大佛次郎賞を受賞した。
話は乱勃発の年の五月から始まる。島原藩の圧政で餓死者が出るなど、領民の生活が立ち行かなくなる中、更に「傷寒禍」(伝染病)が蔓延し、小児がばたばたと死んでいく、そんな状況下、一揆軍が結成されていく。一揆の蜂起から終焉までを重要な日にちごとに細かく章分けし、章ごとに主人公を変え、全体を読み終えた時に島原の乱とは何か、が重層的に見えてくる手法で書かれている。
主だった人物は二人。一揆の指揮官となる鬼塚監物(有馬晴信の旧家臣)と若き医師寿安。
この二人を軸に話が進んでいく。出版当時〝乱の主役の天草四郎は登場せず、領民の側から乱を描いた異色作〟と評価された。
一揆軍の戦術や兵法の描写や、寿庵の身に着けた南蛮医学、東洋医学の描写が実に緻密でリアル。信徒らが秘密教会に粛粛と集まってくる様子なども印象に残る。
さて、作者の〝島原の乱〟史観はこうだ。「バテレン追放令から23年。神父の指導を受けることができぬまま、それまで〝苦しみに耐えなさい〟というキリシタンの教えが薄れた中で起きたのがこの一揆である」
これは作者の独創である。
ただ、以前、この本について知人と語り合った時に、「作者はそう考えていない」と反論されたことがある。私の誤読なのだろうか?改めて精読してみたい。
また、この機会にと『島原天草一揆』大橋幸泰著と『島原の乱とキリシタン(敗者の乱史)』五野井隆史著を購入した。
お二人のキリシタン史学者が島原の乱をいかに考察されたのか興味深い。
参考④
「飯嶋和一氏は、長崎の新聞記者云々」は当時の新聞の本の書評かなにかで確かに読んだ覚えがあったが、その事実はネットにもなかった為、有家(ありえ)在住の知人に伺った。「本は読んだが、著者が新聞記者だったかどうかは存じません」とのことで、これは不明のままだが、そのことと別にこの知人から興味深いことを聞いた。
「島原の乱は〝藩の圧政に苦しむ農民による蜂起〟というのが定説になってますが、これは古文書を基本とした考えで、私はそうじゃないという気がずっとしている。例えば、五島の若松町(神部こうべ?)180軒、つまりその部落全部が原城に駆けつけてるんです。彼らは〝五島には戻らなかった〟とされているのでおそらく全員が処刑されたのでしょう。島原藩の圧政とは無関係の遠方から何故援軍に来たのか。一揆軍の中心は強い信仰心です。これは間違いない。彼らにはこれは殉教に通じるといった意識があったのではないでしょうか。私にはそうとしか思えんのです」
また、このようなお話も。「今年(2021年)の九州を襲った豪雨で原城の本丸跡が陥没したんですよ。幅7,8m、深さ10mほど。下が空洞だから陥没したのですが、底にある部屋には大きな箱があると言われていて、昔から、天草四郎の遺体が安置されているとか、キリシタンの財宝が眠ってるとかの噂があって、今、それを調査する絶好の機会ですが、文化庁がどう判断するのか・・もし空洞を土でふさぐだけの工事をされるともう二度と内部調査は難しくなるわけで、今後を見守ってます」