2016年熊本地震の記録
「熊本地震に遭遇した私的体験」山内継祐氏
ー想定外の4泊5日間が教えてくれたことー
大学の先輩であり、出版社(株)フリープレスの代表を務める山内継祐氏が以前、CBS会(中大カトリック卒業生会)で熊本地震の体験報告をされた。父上の介護ホームへの転居手続きのため、帰省した際に遭遇されたそうだ。その真に迫るお話がいつまでも心に残った。
最近、部屋の大掃除の時に、その発表原稿が出てきて、掃除も忘れ、読み入ってしまった。
首都直下地震が30年以内に起こる確率70%とも言われる昨今。地方、首都を問わず誰にとっても震災は明日の出来事だ。
山内氏のお話は被災報告と共に、災害時、人は何ができるのか、行政がすべきこととは、教会の役割とは、等々、様々な提言もされている。
より多くの方にこの体験記を読んでいただきたく、氏の許可を得てここに再録した。(写真もすべて山内氏撮影)
熊本地震に遭遇した私的体験
97歳の父親は6年前に母を亡くしてから、熊本市内で独り身をかこっている。自宅(小生名義の陋屋)に一人住まいさせるわけにもいかず、24時間ケア付き老人施設に預けてきた。月・水・金曜の3日間は車で10分ほどの病院に送迎され、人工透析を受ける日々。しかし認知症の症状が進行するにつれ、透析を嫌がるようになり、施設や病院をてこずらせていた。迎えの車に乗りたがらない、透析の管を勝手に外して帰ると言い張る……
そこでケアマネさんや病院と電話でやり取りして相談、透析を施設内で受けられる介護ホームに、転居させることにした。新施設との契約が4月15日、旧施設からの転出・新施設への入居が4月17日と決まったので、私は3日間の休暇を取り、15日午前便で熊本に飛ぶ予定を立てた。その日取りをピンポイントで狙い撃つように、熊本地震が発生したのである。
4月14日の夜9時26分、M7.3、震度7の激震。15日早朝、1便のみ運行された飛行機が熊本に着くのを待っていたかのように、空港はその直後に閉鎖されてしまった。到着ロビーの階段やトイレが壊れているのを横目に見ながら空港を飛び出し、タクシーで新たに父がお世話になる施設へ走って、転居手続きを行う。途中の道路も新しいホームもてんやわやの状態だったが、受け入れに支障はないとのことで、手続きは無事完了した。
午後、お世話になった施設で父の持ち物を取りまとめたが、2DKの部屋は地震の直後とあって足の踏み場もない。応援に駆けつけてくれた甥にそこを任せ、施設から徒歩10分ほどの自宅に廻った。
玄関を開けた瞬間の驚きは今も忘れられない。すべての部屋で棚やタンスが倒れ、台所の床には割れたガラス食器類が飛散している。とりあえずガスと電気と水道を止め、それから片付けに掛かった。
深夜になってようやくガラスの破片を拾い終わり、食器棚類を立てて、割れ残った食器を元の位置に並べる。寝床を延べる空間を確保して『さあ、寝るか』と一息ついた16日午前1時25分、今度はM7.4、震度7の揺れに襲われた。後でわかったのだが、こちらが本震。
真っ暗な中、永遠に終わらないのではないかと思うほど長く激しい揺れが続く。食器を並べ終えたばかりの棚を支えたくても、足元が定まらずそこへ近づけない。飾ってあった表彰状や写真の類が飛んでくる、鉄製で重量のある鷲の置物が本棚ごと倒れ、床に羽が突き刺さった。
『閉じ込められてはいけない』と玄関ドアや雨戸をすべて開けて廻り、外に出たところ、近所の人たちが庭先に出てきているのに出くわした。たまに帰省するだけの私は、近所の人たちにとっては見知らぬ他人だったに違いないが、懐中電灯の光で顔を照らされ、「あ、息子さんですか! おやじさんとそっくりですな」。慌てて「初めまして――」と挨拶する。間断なく揺れる大地の上で初対面の挨拶を交わすのは不思議な気分だった。
「とにかくここにいては危ない」と誰かが言ったのをきっかけに、皆で車列を組み、開放的な場所へ移動することになった。持参するのは厚手の毛布か掛布団1枚。一同が目指した先は、父の住む施設の駐車場だった。父がその日転出する予定の、あの老人マンションである。
駐車場には、当直職員の誘導で居室から退避させられた入居者約 50人が固まっていた。中にタオルケットを羽織った父の姿を見つけ、持参した厚手の毛布を着せ掛ける。職員に交渉して、施設保有のマイクロバス4台を出してもらい、車内暖房を点けて入居者を片端から押し込んだ。父がどの車両に乗せられたかは分からなかったが、駐車場内に人影がなくなったので、どの車かに収容されたのだと割り切り、私自身は駐車場の片隅に止めてある父の車(彼は昨年ようやく免許証を返納したが、車はそのまま駐車されていた)の運転席を倒し、車の中で夜を明かした。
早朝、ガラスを叩く音で目覚める。父が立っていた。トイレに行きたいという。近くの用水路に連れて行き、用を足すよう促すと、“大”のほうだとのこと。ズボンの尻が重そうに垂れている。事情を察知してズボンを脱がせ、車内にあったティッシュを箱ごと使って始末する。それでも終わらない分を手で受け、父の排泄物を用水路に流した。その生暖かい感触を感じながら、自分にとって『父はもはや父でなく、赤ん坊に回帰した』事実を、ある種の感動をもって受け止めた。父はその瞬間から私にとって、完全に『介護対象者』となったわけで、同時に何十年の歳月が全部すっ飛び、(“世話する身”と”される身”の逆転はあるが)肉親関係が突然蘇ってきたような気がした。
井戸水で炊いた特大のおにぎり、風呂の衝撃
16 日、近くのスーパーの商品は早くも払底、近くのコンビニもすべて閉店した。無人のわが家の冷蔵庫はみごとにカラだ。
途方に暮れていると、開けっ放しの玄関に人影が見え、「大丈夫ですか、生きていますか」と叫ぶ声がした。赤ん坊の頭ほどもあるおにぎりを2個手に持ち、隣家の奥さんが覗いてくれている。「これ、食べてください。足りなかったら、まだありますよ」。そのお宅では井戸水とプロパンガスを使っているので煮炊きができている、と説明された。20年以上前、市の上下水道局が井戸から水道への切り替えを勧めたとき、わが家はそれに従ったが、周辺では井戸水にこだわる家も多かった。この辺りの水は阿蘇を水源とする伏流水で、すばらしく美味しいのだ。それまで知らなかったが、隣家でも井戸水が生きていたのである。その井戸水で炊き上げた真っ白いおにぎりが、丸一日食べ物を口にしていなかった私を救ってくれたのだった。
さらに、お向かいのご主人から「風呂をどうぞ」と声がかかったので、甘えさせていただいた。しかし石鹸箱とタオルを手に、そのお宅の玄関ドアを開けたとき、私は愕然とすることになる。現に住まっておられるそのお宅の内部の壊れようは、実質空き家となっている拙宅の比ではなかった。風呂場までの通路も、やっと人ひとり通れる隙間ができているに過ぎない。このお宅では手の施しようもない状況の中で、見知らぬ隣人のためにお風呂を準備してくださったのだった。福音書の中で山ほど語られる『隣人愛』の挿話が頭の中を駆け巡る。
激しい悔いに襲われた。私は今の今まで、自宅を“日常”に戻すことしか、眼中になかった。ご近所の苦衷などこれっぽっちも思い浮かべていなかったではないか。それに比べ、ご自分の被害回復より先に、隣人を気遣っておられるご近所の方々の、〈善きサマリア人〉を彷彿とさせる行動……近所で始まった白いご飯の分かち合い。自宅玄関先までホースを伸ばし、「この水、ご自由にお使いください」と走り書きして提供しているお宅、等々‥…ご近所の皆さんへの申し訳なさ、神さまへの申し訳なさに、身がすくんだ。
17日、転居先の施設から連絡があり、父を連れて行った。
往復の道すがら、開店中のガソリンスタンドで、元売系列に関係なくタンクローリーが燃料油を補給している光景を見た。東日本大震災の教訓が生かされた初めての事例だ。石油連盟や元売各社の判断に頭が下がる。
集会所や公民館を避難所にせよ
わずか4泊5日ながら、思いがけない被災体験を通して感じていることがいくつかある。
まず、行政自身が被災者となってしまった場合、その対応は全くアテにならないという事実だ。
どこにどんな形で被災ゴミを出せばよいのか、収集がいつになるのかについて行政当局からは、テレビやラジオを点けっぱなしにしていても、行政当局からは何の指示も告知もない。だから平時に指定されているゴミ置き場はどこも見る見るゴミの山となり、道路を塞いだ。
それより喫緊と感じられたのが、「避難所」の問題だった。拙宅は熊本市南区にあるのだが、テレビニュースが伝える“指定避難所”の数は区内に5ヵ所、いちばん近い避難所まで徒歩で50分を要する。高齢者や病弱な住民にとって有効な避難先とは到底思えない。それかあらぬか、周辺の方々のなかで指定避難所を目指す動きはほとんど見られなかった。大部分の住民が町内に―つはある「集会所」や「公民館」に集まって情報交換をし、その外周の空き地で車上泊に甘んじていた。ところが行政の救援物資は指定避難所にしか届かない。届いても物資の選定や数量設定が行き当たりばったりとなったため、ニーズに沿ったものとはいえず“避難所格差”を生んでしまった。
もっともそうした大状況は被災から10日も2週間も後に分かったことだ。避難所に行くこともできない被災者としては「被災直後の1週間、行政からは何のアプローチもなかった」というのが実感である。その経験から得た教訓は、「集会所や公民館などを実質避難所にすること」だ。行政も平時から日常的に町内会や自治会を行政の下請け機関として活用しているのだから、公民館や集会所を把握することは容易だろう。被災時には現にあるこの仕組みを活用し、救援物資や医療チームをここに届ければよい。当然人手不足だろうから、町内会・自治会側から指定避難所に受け取りに行く仕組みを作り、自衛隊やボランティアなどの人的資源を指定避難所内の仕分け作業と連絡調整に投入する方法が考えられてよいと思われる。
もうひとつ、治安確保の問題がある。被災3日目あたりから、侵入盗の被害が噂となり始めた。しかし警察官の姿をいっこうに見かけない。緊急を要する事案への対処で手いっばい、防犯活動にまではとても手が回らなかったのかもしれないが、知事が要請さえすれば九州管区警察局が管下の県警に非常招集をかけ、機動隊を出動させることも可能だったはずだ。今回も警察庁の号令一下、全国から応援部隊が熊本入りしたが人命救助に主眼が置かれたせいか、被災地の治安回復は後手に回ったうらみがある。
今も時折強い揺れに見舞われている熊本地震では、片づけた後の自宅で寝起きしていても、いつ家屋倒壊に繋がる大きな揺れに襲われるかもしれないから、玄関や窓を開けたままにしている家が多い。それを狙っての侵入盗など言語道断だが、そうした実情に配慮したきめ細かい警察活動が求められるのではないか。
ところで、熊本市中心部には6カ所のカトリック小教区と病院、学校がある。17日夕方にひととおり電話取材し、3ヵ所には実際に行ってみたが、聖堂1ヵ所を除いて被害は軽微だった。が、所属信者の家庭に被害が大きく、どの教会も「朝ミサに来る人が少ない」と司祭や教会委員が人待ち顔である。といっても、被害状況の把握に乗り出している小教区は見当たらなかった。広い駐車場を持つ教会もあるのだが、近隣地域の被災者に聖堂施設や駐車場を開放していた施設は1件もない。教会も被害者、まずは部内の立ち直りからというわけだろうが、何を措いても地域の救援と復旧を目指すべきカリタス精神に即してみれば、地元教会の立ち上がりの緩慢さには違和感が残る。
実際、被災地以外の各地教会から熊本地震への救援基金集めは素早く行われたようだ。カリタス福岡には発災1週間で相当額の義援金等が集まった。しかしその受け入れと仕分けは管轄する福岡教区の対応力を超え、他教区からの応援を待たなければならなかった。しかも福岡カリタスの現地対策本部は被災地から車で2〜3時間もかかる山鹿市内の集会所に設置され、2人のシスターが常駐しただけ。被災情報の集積所としても発信地としても十分とはいえず、全国から被災地を目指したカトリック・ボランティアにとって”地の利のよい場所”とは言えなかった。二次災害を警戒したと言えば言えるのだろうが、どこか腰の引けた対応ぶりが見え隠れする。とりわけ、教会敷地内を地域支援の拠点にする発想が見られなかったのは寂しい。カトリック・ボランティアの役割は、被災した信徒を助けることに限られないはずだ。
18日夕方、停電が復旧したのでテレビを点けると、ニュース映像が現われ、国交大臣が「明朝から熊本空港を開け、定期便の運航を再開する」と胸を張っている。17日には帰京するつもりでいた私は「助かった!」と反射的にスマホを手繰り、熊本発東京行きの午前便を予約した。座席指定までがスムースに進み、クレジットカードの番号を打ち込んで支払いを済ませる。「予約確定」の返信を確認すると気持ちも楽になり、隣家の片づけを手伝う余裕が生まれた。
19日早朝、タクシーを飛ばして空港に急ぐ途中で、無線を通じて、飛行機には乗れないことが分かった。東京発便の運航は再開されたのだが、空港の保安施設が壊れていて手荷物検査が不可能なので熊本発便に乗客は乗せられないという。「昨日、飛ばすといった手前、大臣の顔を立てて飛ばしただけでしょうなあ」と運転手さんは気の毒そうに呟き、「JRの在来線が復旧したようだから、そちらに回ってみましょうか」と提案してくれた。熊本駅にUターンし、JR在来線を乗り継いで博多へ。空港でキャンセル待ちをして東京行きに乗った。
熊本を離れるにつれ、震災の影響が薄くなっていくのを肌で感じた。途中駅から乗り込む通勤客の表情はごく日常的で、いわば“毎朝の風景”。それ以上でもそれ以下でもない。福岡空港出発ロビーではどこか華やいだ雰囲気が加わり、到着地・羽田の何事もなかったような空気に繋がった。踏みしめる足元に微塵の揺れもないのが、奇妙な違和感となって伝わる。私の体はいつの間にか、揺れるのが普通と錯覚してしまっていたのだろう。
そういえば、被災地で過ごす夜が増える毎に、気分が落ち込んでいくのを感じていた。口を開くのがおっくうになり、東京から頻繁にかかる激励の電話への応対もぞんざいになっていくのが分かる。あと何日かいたら普通の気持ちを保っていられたかどうか、自信はない。いつの間にか震度7は、私のようにたまたま居合わせた者にさえ、そんな影響を与えていた。
羽田空港に着き、熊本―東京便の払い戻し手続きをするため、航空会社のカウンターに立ち寄った。「昨日予約した熊本―東京便がフライトキャンセルになったので」という当方の申し出を受けようとした受付嬢が「いらっしゃいま……ウッ」と息を止める。その様子を見た瞬間、はっと我に返った。『そうだ、一度風呂に入っただけだった!』。慌てて近くのトイレに駆け込み、脱いだ肌着を濡らして体を拭いた。それで少しは臭いが消えたのか、キャンセル手続きは滞りなく終わったが、そのまま出社する気にはなれず、早々に帰宅した。大型連休後半に予定している再度の帰省時には、1ヵ月分の着替えを持参しなければなるまい。
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2011年の東日本大震災に際し、私は仙台市郊外の海辺に25年間所有していたアパートを土台ごと流されたが、偶々3・11の2週間前に売却していて難を免れた。しかしほぼ同年数にわたり所有していた郡山市内の物件は半壊指定を受けた上、原発事故の影響で放射性物質の集中的効果地点(ホットスポット)となったため、4年間空き家となったあげく、5年目に「除染作業員の宿舎」として建設会社が買い取ってくれた。二足三文ではあったが、売却できたことを、喜ぶべきだろうか。
熊本地震の震源地・益城町は父と母の生まれ育った田舎である。震源地の真上にあった父の実家は屋根だけを残して全壊、熊本市内のわが家もまた、前述の惨状を呈したままだ。損壊の詳細は、市による判定待ちの状況だが、さてどうなることやら。 ま、「すべてを捨てて、われに従え」――というイエスの声にこたえるには、今がチャンスなのかもしれない。
心にしみた隣家からの差し入れ 隣人たちの助け合い