東日本大震災-あの日から10年➀
- 10年前の思い。今の思い。
東日本大震災から10年が経った。年月の早さには驚くばかりだ。
皆様はあの日、どこにおられただろう。多くの方が〝あの日私は〇〇にいた〟という記憶をお持ちに違いない。
あの日、私は品川の高輪カトリック教会で、ある勉強会に出席していた。午後2時46分、突然激しい揺れが起こった。それは建物が倒れんばかりの激しさで、一瞬、「教会で死ぬ・・それもいいか」なんて心によぎったほどだ。ようやく揺れは収まったが、まわりの誰もが真っ青で、会は即中断。夕方からの仕事のため私は品川駅に急いだが、JRは「全面運休」。駅の中も外も右往左往する人であふれ、駅前のバス停に行けば既に長蛇の列だった。更に道路は車で大渋滞。待てど暮らせどバスは来ない・・。あの日、私は帰宅困難者となり、ほうほうの体で世田谷の自宅に戻れたのは深夜12時過ぎだった。
その時には故郷気仙沼の惨状には気付かなかった。
従兄一家はこの日、気仙沼湾そばの五階建てビルの屋上に辛うじて避難し、気仙沼湾炎上の一夜を生き抜いた。また、塩釜カトリック教会の司祭だった高校時代の恩師、ラ・シャペル神父は震災死された。
気仙沼は私の生まれ故郷ではあるが、小4の時に父の転勤で故郷を離れ、その後、親は仙台に居を構えたため、気仙沼は縁遠い土地になっていた。また、震災直後の混乱期に親戚の見舞いに行くのもボランティアに行くのも、それこそが地元には迷惑になりかねない。そうやってしばらく逡巡していたが、数週間過ぎた頃、ツレがこう言った。「君のふるさとでしょ。見ておいた方がいい」と。確かにそうだな、と思った。親戚の見舞いに行くならば、避難所に支援物資を運びたい。そう思い立ち、関わりのある教会に呼びかけてみた。皆さんの反応は早かった。あの時、誰もが「被災地のために何かをしたい!」と考えていた時期だった。
翌月、私は大量の支援物資を車に詰め込んで東北へと向かったのだが、行く先々で壊滅した町を見た。その惨状には言葉を失うだけだった。気仙沼の親戚の半数の家屋敷が津波で全壊した。幸い誰も命だけは失わず、久々の再会を喜び合い、大勢で食卓を囲んだ。従兄は「支援物資は〇〇に運ぶといい」とテキパキと方々へ案内してくれた。皆さんの善意を残らず届けることができ、私は宮城各地の被災地を目に焼き付けて東京に戻った。
それから数か月がたった。あの時気仙沼で、生存を喜びあった叔父と従兄は体調を壊し、その後亡くなった。支援所で出会ったリーダーも同じく・・。地元民の心身のダメージは、それほど深かったのだと想像する。
辛い見聞の多かった被災地だが、人間の崇高さを垣間見たことも記しておきたい。
ある避難所へ支援米を運ぼうとした時の事だ。そこにいた女性が、
「ここは大丈夫です。明日の分はありますから。 もっと困っている所に届けてください」とおっしゃったのだ。
――人は、極限状況の時、自分だけは助かろうとするものだ。蜘蛛の糸のカンダタのように。――
私は長い間そう思って生きてきた。この女性のこの言葉、私は一生忘れないだろう。
東京に戻ったあと、支援報告をある雑誌に書いたのだが、今回、ここに再録することとした。また、今感じていることも付記した。
「被災地の今、そしてこれから」
ようやく道路が復旧し始めた4月上旬、被災した親戚を見舞うため気仙沼に行く事になった。親戚の安否と同時に気がかりなのは東北の教会と母校の事。父が転勤族だった為私は東北各地で育った。昔通った教会はどうなったのか?知人達は無事なのか?そんな中、恩師ラ・シャペル神父様死亡の知らせを受けた。主任をされていた塩釜教会にはせめて花を手向けに行きたい。あわせて支援物資も届けられないだろうか。母校には学用品を届けたい。支援物資を集めるため急遽高輪教会と吉祥寺教会に協力を願った。驚いたのは信徒さん達の東北への熱い気持ちだ。たった一週間で米、缶詰、肌着類、タオル、紙オムツ、文房具類等々合わせて5百キロもの物資が集まった。信徒の一人が運搬協力を買って出て下さり4月9日に物資を満載させた車で出発。翌日は私が車で出発した。
東京~仙台へ。仙台~塩釜へ。
まず両親の住む仙台に向かう。東北自動車道は災害支援車、自衛隊車、巨大な資材搭載車が間断なく走る。日本中の支援の手が東日本へと向かっていることを感じる。仙台で両親の無事な姿に安堵し、翌日は塩釜へと向かった。まず母校の「塩釜第三小学校」へ学用品を運ぶ。教務主任から「紙類が無く家庭へのお知らせさえ出せない状況」とお聞きしていた。その後「塩釜カトリック教会」へと駆けつけた。
ラ・シャペル神父様の死
ラ・シャペル。フランス語で〝御聖堂〟。先祖代々敬虔な一族だったのに違いない。カナダから来日したのは20代の頃だ。神父様は仙台・聖ウルスラ学院で宗教を教えていらした。若く快活な先生だった。卒業後、何かの会で数回お会いしたことがある。その度に「〇〇さんですね」と笑顔で声をかけて下さった。生徒の名を何年たっても覚えている、そんな先生はめったにいない。
震災当日、神父様は会議で仙台におられた。しかし、塩釜の信徒達を心配し、周りの制止を振り切って帰られたのだという。ところが塩釜は浸水し渋滞のため車が動かず、道路脇の駐車場に車を止めて一晩過ごしたそうだ。雪の降る寒い日だった。翌朝車を降り、遠回りで教会へ歩き始めたその坂の途中で倒れたという。心不全だった。「神父さんは携帯が嫌いで、お願いしても持って下さらなかった。お持ちだったらどこかで助けられたのに!と残念でなりません」。教会委員の永澤孝一さんは言う。
塩釜教会はけれど悲しみに暮れている暇はない。
仙台教区サポートセンターの「塩釜ベース」として、ボランティア達の活動を支えるのに大忙しである。常時25人程を受け入れている。ガレキの撤去で夕方泥だらけになって帰って来る彼らに温かいご飯と味噌汁を提供している。東京からは主に米と食料品を届けた。丁度フランシスコ会のお二人が被災地視察の為訪問中で、永澤さんの車で被害の激しい七ヶ浜へ行くというので私も同乗させてもらった。初めて見る海辺の被災地は想像を絶するものだった。走っても走っても夥しいガレキの山。海辺の家々は根こそぎ流されて跡形もない。対照的に高台の家々は無傷だ。改めて今回の大災害は地震というより大津波がもたらしたものだと実感する。
気仙沼へ。大船渡へ。
4月13日、両親、叔母と共に生まれ故郷の気仙沼へ向かう。
親戚の内、二家族の家は全壊。港から遠かった二家族は被害を免れた。従兄一家は親戚宅に身を寄せている。また、伯母の一人は避難所生活である。命だけは全員無事だった。
その日、わが母校「気仙沼小学校」に学用品を届けた。
その後「気仙沼カトリック幼稚園」へ行った。今回最も訪れたかったのがこの幼稚園だった。『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』(ロバート・フルガム著)という本が昔ベストセラーになったが、この幼稚園は私にとってまさにそのような、思い出深い学び舎なのだ。
こちらには米、肌着類、衣類、タオル、紙オムツを届ける。
そして、二階ホールに所狭しと置かれた支援物資を仕分ける手伝いをする。段ボールには仏教団体や神道団体の名。大手衣料メーカーや関西市民グループの名もある。一つ一つの品物に、発送した人々の思いがこもっている。支援物資は間を置かず被災者へ渡る。教会が支援の拠点になっていた。気仙沼教会の会津隆司神父は大船渡教会も兼任され、付属する両幼稚園の園長も務めておられる。大震災以後は寝る暇もないのではと心配になる。
翌日、唐桑と大船渡へ行く神父様に同行させて頂いた。唐桑の養護老人ホームには百歳になる信徒さんがいる。この方へ御聖体を届ける為車を走らせる。御自宅は全壊したそうだ。神父様の来訪を心から喜んでおられる。神父様は「体はきつくない?大丈夫?」と手をにぎり話しかける。そしてしばしの祈りの後、共にご聖体を頂いた。被災地の片隅での聖体拝領に、静謐な時が流れる。
江戸時代の禁教の頃、パードレが山奥の信徒の元へと何日も歩いて御聖体を届けた。イエズス会日本報告を読むとそんな記述に出会うが、この静謐な時は地下水の様に切支丹時代から連綿と続いてきたものだ。この場に共に在る喜びを味わう。
大船渡へ行く途中、陸前高田を通り抜ける。かつては海岸に沿って松原の続く、風光明媚な町だった。戦時中、母はこの町の女学校へ通っていた。その懐かしい思い出を何度聞いた事だろう。しかし、今、その面影は何一つ残っていない。その日、大津波は木々や家々をなぎ倒しながら陸地の8㌔奥深くまで到達したという。市内のほとんどが水没し8割が壊滅的被害を受けた。
車は、地盤沈下した場所を避けながら大船渡教会へと向かった。後続の幼稚園バスには隙間無く支援物資が詰め込まれている。教会に到着すると、「海の星幼稚園」の職員達が物資の受け取りに現れた。程なく近隣の信徒さん達がやって来た。
〝被災地〟と一口に言っても、その場所々々によって困窮度が全く違う。大船渡は宅配便がまだ入れない地域だ。支援物資が充分届かないこの地域に会津神父は気仙沼に届いた中から選り分けて運んでいる。大船渡の信徒さん達は更にご近所へと物資を配るのだそうだ。気仙沼幼稚園も海の星幼稚園も高台に建てられた事が幸いし建物は無事だった。幼稚園に子供らの笑顔が溢れる日も近いだろう。
被災地の今、そしてこれから
被災から一ヶ月が過ぎ、人々は〝仕事の再開〟へと意欲を燃やし始めていた。従兄一家は仕事仲間と協力して本業のお菓子作りを始めた。それがテレビで放送されると、早速菓子店のHPに遠方からの注文が幾つも入ったと喜んで話してくれた。
従兄の長男は仲間と共に、気仙沼に来てくれたボランティア達に気仙沼ホルモンを振舞うイベントを企画していた。何というバイタリティだろう。彼らは震災の日、五階建て避難ビルの屋上で肩寄せながら気仙沼湾炎上の一夜を生き抜いたのである。
東北人は負けていない。底抜けに明るく、底抜けにタフだ。〝人間の底力〟のすごさを私は被災地で見せつけられた。
最後に皆様にお願いしたい。被災地を長期的に支えてほしい。東北の物品を買い復興を手助けしてほしい。「岩手県」のHP、「宮城県物産振興協会」のHPには日本各地で開かれる物産展のインフォメーションがある。地元の商店はネットで販売を再開し始めた。また、高輪教会では被災したフィリピン人達の為にコーヒーとミルクを気仙沼に毎月送るという取り組みを始めた。東北の漁村を、近年はフィリピンから来たお嫁さんたちが支えている。しかし、支援情報が日本語のみの為、情報弱者となっていた。フィリピン人への支援を強く願ったのは会津神父さんであった。吉祥寺教会、その他の教会でもその教会らしい支援を進めていると聞いた。
千年に一度という未曾有の大災害。それを創造的復興に繋げられるかは日本の全ての人にかかっている。被災者の心を心とし、彼等の同伴者となって明日を切り開いて行ければと思う。
ーこの文章は『聖母の騎士』2011年7月号の記事に加筆したものです。― 写真: 見出し脇の「奇跡の一本松」は産経ニュウス(2012/9/1)より。記事最後の三兄弟の写真は小山裕隆氏提供。それ以外の写真撮影、所蔵はすべて筆者。
10年前は、当然ながら、見えていないことばかりだった。
10年たってもこれほど未解決の問題が残されることをあの時は知らなかった。壊滅した町をどこに再興するのか、防潮堤はどうする、土地の嵩上げはどうする、震災遺構を残すのか残さないのか、補助金の問題、等々。未来が展望できなければ自助努力も続かない。また、課題の根底には、東北地方の少子高齢化問題があることも浮き彫りとなった。それに加えて昨年のコロナ禍が東北の経済に打撃を与えた。
更にもう一つ付け加えなければならないのは、福島のことだ。私が東北に向かった10年前、福島は支援に入る事さえできない危険区域だった。そして10年後の今も尚、3万人以上が避難生活を強いられている。福島第一原発の廃炉作業はあと40年もかかり、事故後の処理水は増え続けて貯蔵が限界に達した。海洋放出か否かをめぐっては結論が出ていない。第一原発周辺の地域(大熊町、双葉町、浪江町)は歴史と文化に彩られた町だったそうだ。そのかけがえのないふるさとをどうやってこれから3万人の方々に還していくのか・・。他人事でなく、わが事として福島を考えられる人が日本の中にどれだけいるのか・・結局、福島復興の鍵はそこにあるのではないだろうか。(※4/13、政府は処理水の海洋放出を2年後に開始することを決定。全漁連は抗議声明を出す。)
最後に、10年前、私が最も感じたことを書きたい。
それは、〝支援の手〟と〝求める手〟を直接つなぐ太いパイプが無いということ。(無い、というのは言い過ぎで、専門家ならばきっとそのパイプは御存知なのだろうが、ごく一般の人間が〝ここに問い合わせれば必要な情報が確実に手に入る〟というシステムを日本は確立していないと感じた。阪神淡路大震災を1995年に経験したにも関わらず)。そのため、支援物資やボランティアが、必要とされる場所に効果的に向かえないというジレンマがつきまとった。被災地の仮置き場には日本中から集まった支援物資がうず高く積まれたままというニュースもよく聞いたし、ボランティアももっと上手に活用できたのではないかと思う。
政府は今年、「IT省」の設立を発表した。コロナに日本中が振り回された結果だが、民間の能力を導入するということに希望を感じている。台湾のデジタル政務官がコロナ蔓延を阻止できたように、ぜひ災害時に力を発揮する日本の省となってほしい。
災害大国の日本。巨大な首都直下型地震はいつ来てもおかしくない時期に来た。
まさに「目ざめていなさい」(マタイ25章)の言葉通り。
「いつその日、その時が来るのか、あなたがたにはわからないからだ」
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⇨ 〃 ② 支援ハガキのこと、等々 は、後日掲載する予定でいます。
●上記の記事にも登場する従兄の店「コヤマ菓子店」の紹介をさせてください。
また、五代目のブログも読んで頂けると嬉しいです。
コヤマ菓子店
気仙沼の「とっておきのお菓子」
「彼を知り己を知れば百戦殆からず」
コヤマ菓子店、小山裕隆のブログ。