『福者デ・アンジェリス神父の冒険』①a

【江戸の大殉教から400年】
迫害のさなか、シチリアの太陽のように日本信徒を照らし励まし続けたパードレの生涯

シチリア

第一章(1568~1602)①a

1867年7月7日、ローマ。教皇ピオ九世は日本で殉教した205名の列福を宣言した。
 列福に尽力したのは、江戸末期に再布教の足跡を琉球に残したフォルカード神父(パリ・ミッション会)とフランスの教区司祭レオン・ロバン神父である(※1)
列福式に参列したロバン神父は感無量だったに違いない。けれど、そこには共に喜びを分かち合うはずの日本人巡礼団の姿は無かった。
日本は鎖国中であった。そればかりか、切支丹弾圧は激しさを増していたのだった。
同年、日本では「浦上四番崩れ」が、翌年には「五島崩れ」が起き、今村、伊万里等の弾圧事件も起きている(※2)
 禁教の高札(こうさつ)が撤去されるのにあと6年、信教の自由が明治憲法に条文化される迄にはあと20余年を待たなければならない。
さて、列福された205名とは、日本で1617~32年の間に殉教した人々であるが、その120番目に記された人が「ジェロニモ・デ・アンジェリスJeronymo de Angelis神父」である。
彼はイタリアの南端、シチリア島のエンナEnnaで生まれ育った。イタリア名はジローラモ。パレルモのイエズス会学院を卒業後、同会に入会。当初から日本宣教を希望した。1602年に来日が叶い、各地で宣教に励んだ。1614年の「大追放」以後は日本に潜伏し、関東以北を巡回司牧。蝦夷に渡った初めてのヨーロッパ人となる。蝦夷地を見聞して書いた調査報告は後にヨーロッパで出版され、日本を知る貴重な資料となった(※3)。1623年(元和9年)、江戸で捕らえられ、品川、札ノ辻でガルベス神父、原主水らと共に火刑により殉教に至った(殉教者は50名)。
 2023年は江戸・元和の大殉教から400年目に当たる。迫害のさなか、シチリアの太陽の如く日本の信徒を照らし励まし、かつ強靭な精神で日本を最も遠くまで踏破した冒険家、ジェロニモ・デ・アンジェリス神父の生涯をこれから紹介していきたい。

・シチリアの春

故郷エンナからの眺望

 1568年、シチリア島の中央高地エンナで男児が元気な産声を上げた。ジローラモ・デ・アンジェリスの誕生である。父の名はジャン・ベネット・デ・アンジェリスGian Benedetto de Angelis(※4)。〝アンジェリス(天使)〟という姓は敬虔な家柄を、〝デ〟という尊称は地元の名家を思わせる。少年は信仰深い両親のもとですくすくと育ったのであろう。
 時代は、ルターの宗教改革から50年。カトリックVSプロテスタントの紛争が激化する時代であり、カトリック国スペイン、ポルトガルがまだ大航海時代の覇者だった時代でもある。
 宗教改革によって、カトリック内部から刷新運動が起き、その機運の中でイエズス会が設立され、承認されたのが1540年、トリエント公会議の終結は1563年のことだった。
 ジローラモの生地シチリア島は地中海の中央に位置し、「文明の十字路」と呼ばれ、古来から様々な国や勢力がこの楽園を奪い合った。今に残る多様な文明の痕跡は観光客を魅了するが、当時の島民には堪らなかっただろう。海岸部から内陸へ100キロ、標高1,000メートルというエンナを選んだ人々はきっと度重なる戦禍を避けたかったのだ。
 ジローラモ3歳の年である。「レパント海戦」(※5)が勃発した。キリスト教連合軍(スペイン、ベネチア、ジェノバ、教皇領、ほか)対オスマン帝国軍との海戦である。

レパント海戦


 連合軍はシチリア島メッシーナに集結し、ギリシャ海域に出航。シチリアの東方、レパント沖でオスマン艦隊とぶつかり合い、勢いに乗った連合軍がオスマンを撃破した。幸運が重なり、わずか4時間で手に入れた大勝利だった。イスラム勢力に連敗を喫していたヨーロッパ初めての勝利であり、シチリア島は攻撃を免れた。エンナにも朗報は歓喜と共に伝えられたことだろう。地中海を舞台とした大戦はここに終了した。それ以後、「レパント海戦」はヨーロッパ文明がイスラムに打ち勝った象徴として長く語り伝えられることとなる。
 ジローラモは幼年期を、カトリック教会の刷新と、キリスト教国のイスラム勢力への勝利、そういった気風の中で送ったのである。
 教会刷新の旗手イエズス会は、まさにこのシチリア島メッシーナに本格的なコレジヨを初めて設立(1548年)し、ついでパレルモに設立(1549年)。この2校が後の全ての学院のモデル校となった(※6)
 ジローラモは16歳の年、兄弟ピエトロPietroと共に、パレルモのイエズス会学院に入学した。専攻は法学だった。

・その頃、ザビエル来日後30年の日本は―

巡察師ヴァリニャーノ


 その頃の日本はと言えば、キリスト教徒は15万人。教会数は約200 。イエズス会士は85名。ザビエル来日からわずか30年ながら、信長の保護の元で順調に教勢を伸ばしていた。
 更に巡察師ヴァリニャーノAlessandro Valignanoが来日すると、200ほどあった初歩的な教会学校ではなく、西洋式の本格的な教育をめざして、有馬と安土にセミナリヨ(中等教育機関)を設立。府内(大分)にはコレジヨ(高等教育機関)を設立した。両セミナリヨには70名以上の生徒が通った。
 そして、ヴァリニャーノは、有馬のセミナリヨの中から4人(伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ)を選び、天正少年使節団を組み、彼らを率いて長崎港からヨーロッパへと出航した。
 1582年2月20日のことである。
 日本のキリスト教会も又、輝く春の日を謳歌していたのだった。

・天正少年使節団のローマ到着


 1585年3月、ジローラモ17歳。彼はパレルモで、「日本の使節団がローマに到着した」という大ニュースを聞いたであろう。
 巡察師ヴァリニャーノの偉業は数々あるが、日本での偉業はキリスト教弾圧によって全て灰燼に帰し、記録の断片が残るのみである。ところが、第1次日本巡察を終え、離日直前に急にひらめいたかのようなこの楽しいプラン・・・・・・、― 日本人を西洋に連れていく。大人ではダメだ。けなげで可愛い日本の少年! 彼らがラテン語を話し、パイプオルガンを奏でる姿に、誰もが感嘆するだろう!― 「天正少年使節団」は彼の想定を遥かに越えて、ヨーロッパ中に「日本熱」をまき起こした。そのため潤沢な史料が今に残った。日本人で巡察師を知らなくても天正少年使節団を知らない者はいない。
 スペイン王フェリペ二世の歓迎ぶりや行く先々での王侯貴族の破格のもてなし、殊にローマ入城時の、―全ての教会の鐘が鳴り響き、300発の祝砲が響く中、絢爛豪華なパレードが2キロも続いた―、一大歴史絵巻は周知の通りである。沿道を埋め尽くした民衆はおそらくこんな事を言い合っただろう。
 「東の果てに本当に黄金(ジパ)()()があったのね!」「 その国をイエズス会士が豊かな葡萄園にしたのよ!」「 あの、新興団体・・・・のイエズス会が!?」「 ほら、ご覧なさい! あれが日本の王子たちね!」「 まあ、綺麗な民族衣装だこと!」
 フーベルト・チースリク神父は講演(※7)でこのように語っている。
 「当時のイタリアは、ルネサンスの華が開いていたが、この少年使節一行の来訪は、美術、音楽等のバロック文化に大きな影響を及ぼした。この事実についての研究はまだ充分進んでいない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・が、少年使節一行がイタリアに到着した時、彼らに関して、出版物だけでも100冊(100種類)程刊行されており、この時代としては極めて大きな反響であった(※8)。現在ヴェニスの一研究者が60冊程の原本を収集しているが、なお他に10冊は所在が確認されている。この反響は、2、3年の間ヨーロッパ各地で続いたが、イタリアにおいて、特に顕著であった。」(傍点は筆者)
 天正少年使節団とは、まさに〝グローバルヒストリー〟の典型である。未開拓分野はまだ多く、今日でも新発見や新研究が続いている(※9)。
 チースリク神父は更に「使節団の来訪は殊にイエズス会の学校や若者の間で大きな反響があった」と語っておられる。4少年と同世代であるジローラモら学院生たちにとっては尚更だっただろう。パレルモから一行を見物(笑)にローマへ向かった人間もいたかもしれない。後述するカルロ・スピノラ神父も又、使節団が携えてきた手紙「ロドルフォ・アクワビーヴァ神父がインドで殉教した報告」とイエズス会士の東洋での活躍に感動したことが入会の動機となった。(使節団が持参した書簡類はすぐに出版され広まった)
 翌86年、学院を卒業したジローラモは兄弟と共にイエズス会に入会した。18歳であった。
 入会の動機として彼は、「イグナチオの霊操」(※10)に熱く感動した事を挙げている。この「霊操」は日本のキリシタンにも影響を与えたが、生涯を通しアンジェリス神父の霊性の核であった。
 彼は入会するとすぐに「日本宣教」への嘆願書を総長に送った。当時、会の東洋宣教部門はポルトガル管区だったので共通語はポルトガル語だった。その為、「ジローラモGirolamo」はポルトガル式に「ジェロニモJeronymo」と改め、「イエズス会士ジェロニモ・デ・アンジェリス」と名乗るようになっていった。パレルモの後はメッシーナのノビシアード(修練院)で修練期を送った。

デ・アンジェリスの大航海

・苦難の航海
 1595年12月。
アンジェリスの東洋への第一歩はジェノバ港から始まった。東洋宣教を夢見るイエズス会士らと一緒だった。
その中の一人に「カルロ・スピノラCarlo Spinola」がいた。彼はジェノバ四大貴族の一つスピノラ家の出である。著名な政治家や軍人、高位聖職者を輩出する名門だった。家柄のみならず彼は、天文学、暦学、数学に通じたルネサンス的頭脳の持ち主でもあった。イタリアでの栄達を望む親族の猛反対を押し切っての船出だった。
 アンジェリスとスピノラ、終生の霊的兄弟とも言える二人には、しかし、苦難の航海が待ち受けていた。すなわち、大嵐、船の破損、全くの無風状態、海賊襲来、はたまたペスト・パンデミックの大発生。
 彼らの大航海は難行苦行の連続だった。

                                    次号につづく

『福音と社会』Vol.322 (2022年6/30)に掲載されたものです。


註釈

(※1)―横浜天主堂と日本再布教―中島昭子氏(「カトリック横浜司教区」のウェブサイト)

(※2)「崩れ」とは潜伏キリシタンの大規模な摘発のこと。1867年3月、潜伏キリシタンの自葬事件をきっかけとして、長崎の浦上地域の潜伏キシタン約3500名が摘発された。彼らは津和野、鹿児島、広島、金沢など20余藩に流刑となる。流刑先での拷問は残虐を極め、約700名が殉教した。その翌年、(明治元年9月)五島・久賀島の約200名が捕えられ、拷問を受けた。殉教者は42名。その後、五島の他の島々でも同様の事件が起きた。
(※3)『北方探検記』H・チースリク編(昭37、吉川弘文館)に収録。
(※4)「Girolamo De Angelis―Wikipedia」(ウェブサイト)
(※5)レパント海戦
 地中海でのオスマントルコの勢力拡大を恐れたヨーロッパ諸国がカトリック連合軍を結成しオスマン軍と戦った海戦。1571年10月7日昼前に始まり、夕前には決着した。オスマン艦隊300隻のほとんどが破壊&拿捕。オスマン軍兵士の多くが戦死&処刑された。対する連合軍の損害は軽微であった。スペイン黄金時代を象徴する海戦である。ちなみに作家のセルバンテスは海戦に従軍し戦闘で左手を失った。スペインに帰国後書いたのが『ドン・キホーテ』だ。
(※6)―「キリスト教と「エリート」教育:イエズス会教育を中心に」桑原直己氏の論文―(https://core.ac.uk/download/pdf/87200698.pdf)ジローラモは最初はパレルモで、入会後は、メッシーナで学んだ。((※4)のサイト)。
(※7)「静岡キリシタン文化研究会会報(第8号)1991/3カトリック静岡教会発行」掲載のチースリク師の講演(1989/10/29)。

(※8)出版物は、使節団の通らなかったオーストリア、フランス、ベルキーだけでなく、新教国ドイツやイギリスでも刊行された。

(※9)たとえば、Ⓐは、2005年、教皇グレゴリウス13世の生家ボンコンパーニ家(ローマ)で発見された「伊東マンショの肖像画」。現在長崎県が所有。Ⓑは2014年、ミラノでトリヴルツィオ財団が発見した「伊東マンショの肖像画(ドメニコ・ティントレット作)」。〝世紀の大発見〟と言われた。ベネチア訪問の際に描かれた記録はあったが、長い間その所在は不明だった。2016年、東京、長崎、宮崎で公開された。また、新史料を扱った最近の著作としては、ブラガンザ公爵家で発見された記録を収めた『戦国の少年外交団秘話』ティアゴ・サルゲイロ著(2014、南島原市発行)や、『世界史のなかの天正遣欧使節』伊川健二著(2017、吉川弘文館)、滝澤修身氏の―「天正少年使節」スペイン史料からの再考―(『映しと移ろい』2019、花鳥社、所収)、藤川真由氏の使節団歓迎画や行進画の初めての紹介と分析(キリシタン文化研究会会報153号、2019/5)、(同会報154号、2019/11)、などがある

Ⓐ伊東マンショ
Ⓑ伊東マンショ

(※10)「霊操」Exercitia Spiritualia

  イエズス会の創立者イグナチオ・デ・ロヨラが自身の体験をもとに長い年月をかけて完成させた霊的修業法。仏教の「内観」にも似ている。〝神が自分に何を望んでおられるのか、その答えに出会うための祈りのプログラム〟と言われる。俗世間から離れて沈黙の内に行う祈りと瞑想であるが、時に応じ導き手(同伴者)に個人指導を受ける。基本は30日間のコースである(完全霊操)。1時間の祈り(準備、本体、締めくくり)を1日5回行い、それを1週(自らの罪の糾明)、2週(キリストの前半生の黙想)、3週(ご受難の黙想)、4週(十字架の死と復活の黙想)と辿る。完全霊操が難しい人の為に、日常霊操等々のコースもある。イエズス会士には生涯2回の完全霊操が義務づけられる(初誓願と終生誓願の前)。
 フランシスコ・ザビエルは若き日に霊操を体験し(同伴者はイグナチオ)、強烈な回心とともに自らの使命に目覚めた。
 キリシタン時代、日本では翻訳本『スピリツァル修行』(1596)が天草で出版され、信徒も霊操に励んだ。明石掃部(かもん)が霊操(1601.6.完全霊操と思われる)を行った記事(『一六・七世紀イエズス会日本報告書』(第Ⅰ期第4巻、P91)や、高山右近の霊操の記録も残る。(秀吉の禁令後、有家のイエズス会修練院で(1588)、マニラ追放直前の長崎、トードス・オス・サントス教会で(1614))