『福者デ・アンジェリス神父の冒険』②b

順風の中で起きた
大事件。
更に「伴天連追放文」が
アンジェリス神父らを
直撃する。

・駿府教会設立に奔走する

駿府地図・イエズス会の教会は竹屋小路にあったと思われる。フランシスコ会の教会跡には現在「駿府切支丹聖堂跡」の碑がたつ(葵区川越町)【筆者作図】

 1611年、ローマのイエズス会総長より駿府教会の設立許可が下りた。アンジェリス神父の知人が本部に嘆願したおかげだった。駿府に関しては、アンジェリスに一任された。
 神父の朗報に、駿府でたちまち献金が集まった。その額は1,200タエスに及んだという。推定2400万円である。当時、一つの教会を建てるのに充分な額であったろう(※7)
 1611年の暮れ、悲願の駿府教会が設立された。信徒数は700名を数えた。伏見同様、「教会」と称することは出来なかった。名義人は「岡本大八」である。大八は家康の側近・本多(まさ)(ずみ)与力(よりき)である。教会にはアンジェリス神父と1人の修道士及び数名の同宿が居住した。
 更に江戸にも教会が必要だと考えたアンジェリスは、翌年、苦労の末に江戸で家屋をみつけ、売買契約を結ぶ運びとなった。
 まさにその契約日のことである。江戸でキリシタン迫害が始まり、契約は頓挫。アンジェリスは急遽駿府へ戻った。駿府で岡本大八事件が起きていたからだった。

 ・「岡本大八事件」が起き、駿府教会に激震が走る。

有馬晴信木像(有馬キリシタン遺産記念館)

 1612年3月、有馬晴信と、岡本大八との間の贈収賄が発覚した。有馬晴信には、龍造寺氏に奪われた領地(肥前藤津(ふじつ)彼杵(そのき)杵島(きしま))を取り戻したいという大名たる野心があった。大八は長年、長崎の主だった人々(宣教師や晴信)と本多正純との仲介役を果たしてきた。大 八は晴信の野心を知ると、彼に、〝マードレ・デ・デウス号事件(※8)での功労に対し、領地回復を正純殿を通して公方殿に働きかけよう〟と持ち掛けた。偽の証書まで作り、仲介料として、数千クルザード(あるいは白銀600枚)、推定5,000万円前後を晴信から詐取した。一年経って何の沙汰もなく、不審に思った晴信が本多正純に問い合わせ、大八の不正が明るみになった。
 捕らえられた大八は晴信を逆恨みし、晴信の長崎奉行長谷川藤広暗殺の意図を告発した。両者間にはデウス号事件で確執がおきていた。奉行暗殺を企てるなどは国家反逆罪である。

 4月21日、岡本大八は、市中引き回しの上、安倍河原で火刑に処された。
 同日、家康は、江戸幕府として初めての「禁教令」を布告。江戸、駿府、京都等の直轄地から始まり、全国の諸大名にも通達されていった。岡本大八名義の教会は没収された。信徒悲願の教会設立から半年も経っていなかった。
 

 一方、有馬晴信にも処罰が決定された。まず甲斐への流刑である。4万石の大名が家臣35名のみで流刑地へと向かうその思いはいかなるものであっただろう。流刑の宣告は聖金曜日(キリストの磔刑の日。1612年は4月20日)のことだった。甲斐への出発は復活祭の明け方である。その意味を晴信は考え続けた。そして自らの運命を従容として受け入れていった。甲斐に着くと正式に死刑が言い渡された。処刑の日、晴信は妻ジュスタにキリストの受難の場面を読ませ、罪の痛悔を行い、家臣の一人ひとり、下僕に至るまで親しく語りかけ、その者に犯した罪の許しを請うた。そして深い祈りののちに首を差し出した。

 有馬晴信は6月5日(慶長17年5月6日)、甲州、初鹿野はじかのでその生涯を閉じた。 
 晴信が巡察師ヴァリニャーノから洗礼を受けたのは1580年のことだった。貿易のための受洗と言われる。しかし、受洗後はイエズス会を支え、学院設立にも尽力し、学院からは多くの青少年が育った。アンジェリスが学んだのもその学院だった。地元民は全てキリシタンとなり、23以上の教会が建った。領内にはヨーロッパの文化が花開いた。迫害されて有馬領に逃れた神父や信徒を守り続けたのも晴信であった。
 教会は西国最大の保護者を失ってしまった。
 そして、事件の影響はそれにとどまらず、キリシタン宗門に計り知れない災禍を与えることとなったのである。
 事件は、禁教に背いた二人による領地の闇取り引きなのである。しかも、岡本大八は家康の最側近の(・・・)の与力である。キリスト教が城内に浸透していることに家康は肝を冷やしただろう。即刻、駿河で徹底的なキリシタン捜索が行われた。そして家臣団中、56名が摘発された。その内の直臣14名が棄教を拒否した()(※9)。城の侍女の中にいたキリシタン、おたあジュリア、ルシヤ、クララも棄教を拒否した。
 性質に於いて家康は情け深い人だった。成敗した敵将の遺児を引き取り、家臣として育て、能力ある者を高い地位へ引き立てていった。幼くして拾われた原主水がそうだった。家康落胤と言われる小笠原権之丞(ごんのじょう)への処遇がそうだった。また、故小西行長の養女おたあジュリアを引き取り慈しんだ。事件当時、原主水は25歳、小笠原権之丞は24歳。のちの重臣と期待していた者たちであった。彼らが、慈父にして国王に等しい自分より、デウスを選ぶというのである。信仰を捨てるより命を捨てるというのである。
 家康はキリシタン信仰の強さに驚いただろう。それは一向一揆の恐ろしさを想起させた。
 家康が嫌ったのはキリスト教のみではない。浄土真宗(一向宗(・・・))、日蓮宗の不受不施派(・・・・・)も同じく嫌悪し、弾圧した。
 それらに共通するのは、「地上の権威を超えるものへの帰依」である。それは、神、阿弥陀如来、法華経であるが、「その御前に全ての人間は平等」と教える。それは、家康が理想とする「徳川将軍をこの世の頂点とする封建体制」を真っ向から否定するものだった。
 時あたかも、大坂方に気になる動きが現れ始めていた。豊臣秀頼が青年武将に成長した。淀が合戦に備え、主君を失ったキリシタン武将を大坂城に集め出したという噂が立った。更に求心力を持つ高山右近が大坂方につけばキリシタン勢力が集結するのは必定だ。
 家康の周囲には彼の疑心を煽る人々―「キリシタン奪国論」を繰り返す僧侶、儒学者、家臣や、日本貿易の独占の為に南蛮人追い出しを図るオランダ、イギリス商人―に事欠かなかった。
 信長以来、政庁で信頼を受けたオルガンチノ神父は既にこの世にはなく、通辞ロドリゲスは、政敵の策略で失脚し、前年マカオに追放された。教会は重要な弁護人を失っていた。ロドリゲスに代わって家康の相談役となったのは英国人ウィリアム・アダムス(三浦按針)だった。南蛮貿易を切っても、家康は、紅毛貿易に活路を見出せたのである。オランダ、イギリスは宗教抜きの商売をした。
 家康のキリスト教政策はここに決定した。「日本からの根絶」である。この()()は、岡本大八事件を逆手に取って、「キリスト教を根絶やしにするチャンスは今しかない」、そう考えただろう。  
 各地の有力キリシタンが改易、追放され、教会は次々に破壊されていった。

・渦中にいたアンジェリス神父

  事件当時、その渦中にいたアンジェリス神父と、処罰を告げられた人々の様子はいかなるものだったのか。
 「1612年度日本年報(駿河の国の司祭館について)」が詳細に語っている。(以下は要約)

――迫害の前、駿河では、1か月に240名の成人が受洗するほど教会は栄えていた。しかし、繁栄と平和は掻き乱された。公方からの禁令の噂が広まると、駿河の信者は教会に集まり、告解しミサに与り心の準備を整え始めた。司祭は昼夜休む暇がなかった。大勢が集えば公方の怒りを買うので来ないようにと説得しても駄目だった。彼らは殉教への望みを語った。この情熱は、老若男女、全員に共通した。キリシタンの覚悟と共に受ける苦難も多くなった。諸侯らは、家臣を飴と鞭で脅かし、結局は財産を没収し流刑にした。中には、棄教する者もいた。逆に喜んで苦難を受ける者もいた。そうさせるほどの宗教の神秘を知ろうと、迫害のさなかに多くの者が説教を聞きに来た。一方では、キリシタン信仰は、狂乱、愚行だと言う者もいた。公方が厳しく追放した14名の騎士の中、第一の者は、ディエゴ小笠原権之丞・・・・・・であった。ディエゴは7年前の受洗後、非常に純粋な生活を送ったので、指導司祭は、〝彼の霊魂は天使のようであり、その業は敬虔な修道士のようだ〟と手記に書いた。彼は周りを大いに教化し、入信時、一族に3名だったキリシタンが、少しの間に300名になった。彼は、田舎の所領に教会を1つ建て、そこに一兄弟会を創設した。彼は駿河に我らの修道院を設立し、会員を維持する中心人物であった。彼は修道士になろうとしたが、妻帯者はなれないことを知ると、せめて主の為に死にたいと考えるようになっていた。迫害が始まった時、三河にいたが、ただちに駿府の教会に来て、大喜びで「長い間待ち望んでいたことを成し遂げる時が来たた」と言った。夜は霊的な話をしてすごし、翌朝、告解をし聖体を拝領して殉教への勇気を得た。公方は、その時、岡本大八事件の処理で忙しかったので、一旦、自領に戻り、新しい教会を建てると、キリシタンの一族を呼び、聖像の前で長く語りかけ、共に祈った。
彼は二人の日本人修道士に次のような手紙を書いた。「私は自分の運命に満足している。主なるデウスへの感謝をどう表現していいか分からない。6,000俵の俸禄を捨てる代わりにデウスが天国を与えて下さると思うと、心は嬉しさのあまり飛び跳ねる」
 駿河の司祭(アンジェリス神父)にも手紙を書いた。
「罪深い私にデウスは、追放者14名に加えるという恩寵をくださった。私は以前はデウスと公方のお二方に仕えていたが、今ではデウスへの奉仕に全てを捧げているので幸福だ。ただ一つ、今回、改易、追放のみで殉教できなかったことが苦痛だ。けれど、しかるべき時に神の恩寵によりこの願いは成就するだろう」―― 

【小笠原権之丞の略歴は末尾に→】

 更に「年報」には、ヨアキム梶十兵衛、16歳のバルトロメオ梶市之助、この二人の兄弟とアンジェリス神父とのやり取りを記し、彼らの殉教燃を伝えている。続いて、家康がおたあジュリアに激怒する場面が記される。

おたあ・ジュリア(画・石田道子)

――「他の二人の侍女のことは気にならないが、ジュリアがわが(めい)に服さないのは我慢がならない。それは忘恩、無思慮の行為である。朝鮮の戦(文禄・慶長の役)で囚われとなった貧しい異国人を、日本の貴婦人にまでしたというのに。そればかりか、どこに行く時も常にわがそばに置き、信頼を寄せていたというのに。ジュリアの忘恩と反抗は罰せねばならぬ。ジュリアを棄教するまで苦しめよ!」。身分ある女たちは、表面だけでも棄教するよう諭したが無駄だったので腹を立て、奇人、変人とののしった。「ジュリアは以前から、夜、御殿を抜け出してはどこかへ遊びに行っていた」と中傷する者がいた。家康がジュリアに審問すると、「ただ、教会へ、告解とミサのために外出しただけです」と言い、貧者に施しをする慈悲深ささえ明らかになった。周囲はジュリアを殺すよう家康に迫ったが、家康は大島への流刑を命じた。――

 ジュリアは4月20日、大島へ送られた。そこから更に新島へ、最後には寂しい小島である神津島へと送られた。家康の側室への打診をその都度断ったからとも言われている。
 ジュリアは流刑地から駿河の司祭(アンジェリス神父)にあててこのような手紙を送った。
「使徒や殉教者、聖母マリアについての書物を何冊かお送りください。そしてまだ迫害が続いているならば、その状況についてもお知らせください。主のゆえに追放されたことは私には勿体ないことで何も後悔はありませんが、唯一、告解も聖体拝領もできないことが私を苦しめます。せめて毎日の黙想の折に、この地がカルワリオ山であることを想像し、主のご受難を思い浮かべることで慰めを得ています」――

【おたあジュリアの略歴は末尾に→】

・キリシタン「大追放」へ

 1614年2月1日、〝黒衣の宰相〟(こん)知院(ちいん)崇伝(すうでん)起草「伴天連追放文」が全国に公布され、禁教令を確固たるものにした。
 内容は、①日本は神国、仏国、儒教の国である。②キリシタン宗門は日本を損なう邪教である。③よって速やかに日本から排除する、というものだった。
 以前の禁教令と大きく違う点は、その対象と、厳格さである。秀吉は〝伴天連は国外追放〟としたが、貿易目的の南蛮船来航は構わない、仏法を妨げなければ誰でも渡航してよい、とした。そのため宣教師の来日を食い止める事は出来なかった。禁教の対象も領内の武士階級に限定した。

トードス・オス・サントス教会跡(現、春徳院)

家康の禁教令は、「日本に住む人民すべて」を対象とした。「伴天連追放文」が公布されるや、「全ての神父と修道士、同宿、高山右近、内藤如安、内藤ジュリアは国外追放」と厳格な措置が取られた。また、全ての教会と関連施設の破壊が命じられた。
 2月21日、アンジェリス神父と京都の宣教師は他の修道会士と大坂で合流後、長崎へ護送された。宣教師が収容されたのは長崎のトードス・オス・サントス教会(現在の春徳寺)である。小高い丘に立ち、長崎の街が一望できる教会だった。

 1614年当時、日本のキリスト教徒は推定37万人。司牧する側のイエズス会士は115名。その他の修道会士は22名。教区司祭は7名だった。各修道会は会員をいかに残留させるかに腐心した。 
 イエズス会は、最低限の日本人神父、修道士を残した。外国人でも潜伏生活に耐えられる人間は残留を許した。すなわち、年齢、健康状態、日本語能力、適応力が問われた。役人の目があるため、長崎で知られた司祭、修道士は追放船に乗らざるをえなかった。例えば、将来は日本の教会の支柱と目されていた原マルチノがそうだった。アンジェリスと、カルロ・スピノラは残留が許された。二人は再び同じ運命を生きることとなった。
 宣教師らの国外追放に先立って、4月13日、畿内のキリシタン武士71名とその家族が津軽へ流罪となった。その中には宇喜多休閑(宇喜多秀家の親戚)とその家族がいた。
 11月7日、長崎の福田港からマカオに向けて約120名が3隻のジャンク船で追放された。(62名のイエズス会士と53名の同宿、3名のベアタス会修道女、その他)
 11月8日、マニラに向けて約350名が2隻のジャンク船で追放された。(23名のイエズス会士と15名の同宿、17名の他修道会士、高山右近及び内藤如安とその家族、内藤ジュリアとベアタス会修道女15((※10)


 こうして家康はキリシタン勢力を一掃することに成功した。また、ほぼ全ての教会関連施設を破壊した()(※11)
 家康が満を持して大坂冬の陣の火ぶたを切ったのはその直後(1614年12月19日)のことである。
 蓋を開ければ、東軍(徳川軍)20万VS西軍(豊臣軍)10万。力の差は歴然だった。
 東軍には、伊達政宗がいて、彼は支倉常長の遣欧使節をローマに派遣したばかりだった。政宗の家臣、ヨハネ後藤寿庵は鉄砲隊の隊長として参戦した。
 西軍には、前号の註釈で「修道士になりたかった人。40日間の完全霊操を行った人」と紹介した明石掃部(あかしかもん)がいた。今号で取り上げた小笠原権之丞も西軍に加わり、家康と対峙した。


 さて、大追放下、日本に残留できた宣教師は46名である。(イエズス会士26名。イエズス会以外では20名)。その内の7名は、長崎沖で追放船から脱出し信徒の小舟で日本に戻った人である。また、100名ほどのイエズス会の同宿、小者(従僕)も残留した()(※12)

 この時からアンジェリス神父の潜伏布教時代がスタートする。彼は命がけで東北へ、更に蝦夷へと向かうこととなる。そして蝦夷報告等の豊富な手記を書いていく。
 次回は潜伏しつつ北方をめざすアンジェリス神父の足跡を辿っていく。
             *  *  *  *  *  *  *  

主要人物紹介

 最後に、今号で取り上げた主要人物の略歴を書き添えたい。

最初の上司

モレホン『日本殉教録』

ペドロ・モレホン(Pedro Morejon)神父(1562~1639年)
 スペインで生まれ、1577年、イエズス会に入会。修道士の頃、天正少年使節団の来欧という出来事に接し、それをきっかけに日本宣教を望むようになる。使節団の帰路に同行が叶った。ゴアで叙階し、途中で合流した巡察師ヴァリニャーノらとともに来日を果たす。大変な努力家で日本語や日本文化に習熟した。オルガンチノ神父の後継者として、京坂地区の上長となり、若きイエズス会士を育成した。大坂時代の部下に日本26聖人の3人(パウロ三木、ディエゴ喜斎、ヨハネ五島)がいる。下京時代の部下にはスピノラ神父や、のちに背教者となる不干斎ハビアンがいる。(退会後もハビアンはモレホンに面会したり、イエズス会士についての率直な意見文を送ったりした)。1612年頃、司教セルケイラから日本の殉教者の列聖調査委員に任命される。

 1614年「大追放」の際には、高山右近、内藤如安、ジュリアらと共にマリラに追放された。右近の聴罪司祭であり、右近の最期を看取った神父である。死後すぐに高山右近伝を執筆する。
 国外追放後も度々日本再上陸を試みるが叶わなかった。
 カンボジアの日本人町にいた時にアンジェリス神父らの江戸の大殉教を知る。1630年、マニラでペトロ岐部と出会った際には岐部の壮大な旅のプランに感銘し、金銭的、物質的な支援をした。1634年頃、マカオでフェレイラ(沢野忠庵)の棄教を知る。フェレイラはモレホン神父がかつて重用した部下であった。その二年後、老齢となったモレホン神父はフェレイラのイエズス会除名宣言に震える手で署名したという。1639年12月11日、マカオで死去した。
 彼は日本のキリシタン宗門の激動の時代を体験した。列聖調査委員として、追放後も日本の情勢に関心を持ち、『日本殉教録』『続日本殉教録』を著した。それらは殉教者たちの事績を伝える基本史料として、1858年アンジェリス、スピノラらの「205福者」列福の際にも用いられ、2016年「高山右近列福」でも重要な役割を果たした。

天使の霊魂と讃えられた
小笠原権之丞(1589頃~1615年)
 徳川家康の落胤として知られる。
 母は、家康の正室、朝日姫(秀吉の妹)の侍女「大さい」。懐妊した「大さい」を小笠原正吉に嫁がせ権之丞が誕生したと言われる。後に小笠原家を継ぎ、6,000石を領した。
 キリシタンとしての敬虔な信仰生活は今号の記事に書いた通りである。駿府の教会の支柱として尽力した。
 岡本大八事件により、改易、放逐された。
 大坂の陣が起きると、家康に敵対する豊臣軍に参戦。波乱に満ちた生涯を送った。

原主水像(静岡教会)
「駿府古図譜」原主水邸。冒頭の駿府地図で静岡高校そばの☆印の所

アンジェリス神父と不思議な縁をもつ
原主水(1587~1623)
 1612年、「岡本大八事件」勃発。当時家を留守にしていた為、難を免れたが、2年後、捕縛。棄教に応じず、安倍河原で額に十字の烙印を押され、手足の指全てを切断され、足の腱を切られた。その後、浅草のフランシスコ会のハンセン病治療院で宣教師や病者に仕える生活をする。

伏見、駿府で度々アンジェリス神父の教会を訪れた女性
おたあジュリア(1580年頃~?)
 文禄の役の際に平壌近郊で小西行長が保護したのち、日本で小西夫妻に育てられた。その頃キリシタンとなる。関ヶ原の役後、行長が処刑されると、家康の伏見屋敷に召し上げられ、家康の側室付きの侍女となる。他の侍女たちを信仰に導いた。
 彼女の存在は早くから有名だったらしく、宣教師の書簡や報告書に度々登場する。
――御殿において公方に仕える女たちの中に何人かのキリシタンがいる。そのうち朝鮮国籍の一人は、非常に敬虔に熱心に行動し、その著しさは修道女と競えるほどである。夜の大部分を霊的読書と祈りに費やす。昼間は、異教徒(公方とその夫人たち)の中にいるので、そうすることができないからである。そのために誰にも知られないように厨子(オラトリオ)(※13)を持っている。そして、知人を訪問する名目で御殿を出てたびたび教会を訪れ、告解し聖体を拝領する。その姿は見る人に慰めを与える。彼女は、キリシタンの侍女たちの信仰を励ましている。また、我々とキリシタン宗団にとって有益な意見を述べて司祭たちを大いに助ける。御殿にいるので、そこでの出来事を熟知しているからである。彼女は若く、生来の資質に恵まれ、異教徒の間で生活しながら、修道女のように清純さを保ち、心身にいかなる汚れも許さず、それよりむしろ生命を失おうと常に覚悟している。――(「一六〇五年度日本年報、日本の諸事、(伏見の諸事)」)
 1612年以降の動向は今号に書いた通りである。家康の死後、恩赦によって本土に戻れたことがイエズス会の書状や書簡に書かれている。

次号につづく。
(大坂の陣との遭遇。そして東北へ)

『福音と社会』Vol.323(2022年8/31)に掲載されたものです。


註釈

(※7) 江戸(・・)初期(・・)の「タエス(テール)」(中国)に関しては、注※2[江戸・・初期・・の「タエル(タエス、テール)」を日本円に換算する様々な資料はあるが、「1テールは銀10匁にあたる」(『オランダ商館の日記』永積洋子訳、『バタヴィア城日誌』村上直次郎訳)]を基に、1タエル=2万円と私算した。1,200タエスは2,400万円となる。日本の教会の中で最も壮麗な4階建ての(長崎)岬の教会が作られるのに2,600クルザード=推定5,200万円かかったことから考えると、2,400万円は少額ではない。

※8) マードレ・デ・デウス号事件
1609年、有馬晴信の朱印船がマカオに寄港中、有馬家臣の船員が取引をめぐってポルトガル人と騒乱事件をおこした。マカオ総司令官アンドレ・ペッソアが鎮圧し、60余名の日本人死者が出た。翌年、ペッソアは家康への釈明も兼ね長崎に来航。遺恨を持つ晴信は家康の了承のもとで長崎奉行長谷川藤広らと共に船を撃沈し、家康に評価される。しかし、晴信と長谷川との関係性は意見の食い違いから悪化していった。

(※9) 14名とは、ディエゴ小笠原権之丞、ジョアン原主水、榊原嘉兵衛、西郷宗三郎、湯座伝三郎、山下庄三郎、 ヨアキム梶十兵衛、バルトロメオ梶市之助、横地長五郎、吉田武兵衛、小野庄蔵、須賀久兵衛、 山田次左衛門、水野二左衛門

(※10) 追放者の人数は史料により違いがある。ここでは、『続日本殉教録』モレホン著、『日本切支丹宗門史(上)』レオン・パジェス著を基にした。

(※11) イエズス会はこの年、全国で86か所教会と駐在所を失い、スペイン系の教団は1、2の会堂を除いてほぼ壊滅状態となった。(『キリシタン禁制史』清水紘一著、教育社、1981年)

(※12) 『徳川初期キリシタン史研究ー改訂版』五野井隆史著、吉川弘文館、1992年

(※13)オラトリオとは祈祷所の意味、厨子とは霊的な収納箱。それで考えると、扉のある祭壇のようなものか?