註釈(1) バタヴィア城

バタヴィア城・1629年

この絵地図は、1629年制作。
サラ・ピーテル事件当時に描かれたもの。

運河で囲まれた街全体がオランダ領バタヴィアであり、下方の四角い城砦がバタヴィア城である。(https://www.britishempire.co.uk/maproom/batavia.htm)




註釈(2) 総督クーンと妻エファ・メント

ともにジャコブ・ワーベン Jacob Waben 作
(オランダ・ホールン市、ウェストフリース博物館所蔵)




註釈(3) 旧バタヴィア市庁舎

旧バタヴィア市庁舎

当時の市庁舎は、現在、「ジャカルタ歴史博物館」となっている。

写真は旧市庁舎と、二人が処刑された市庁舎前広場
(撮影: 筆者)




註釈(4) コルネリス・ファン・ナイエンローデ Cornelis van Neyenrode

第五代平戸オランダ商館長(在位1623~32年)。
デルフト出身。VOC職員として東南アジアに渡来。アユタヤ、パタニ等で勤務ののち来日。1623年カンプスの後任として平戸オランダ商館長となる。有能な人物であったが、海外勤務の激務と過度の飲酒により心身を病み、狂気の内に1633年(1/31)平戸で亡くなる。
『東インド事務報告』によると、死後、違法な蓄財(半分は密貿易によるもの)が推定2億4000万円にものぼる事が発覚し、その為、名誉を剥奪され、本社から全財産を没収された。

ちなみに、日本人女性スリシアとの間に1632年頃誕生した娘がコルネリア Cornelia である。彼女は父の遺言に従い39年にバタヴィアに渡った。その生涯は『おてんばコルネリアの闘い』(レオナルド・ブリュッセイ著1988年平凡社刊)に詳しい。彼女はバタヴィアで富裕な上級商務員ピーテル・クノルと結婚し10人の子供をもうけた。その屋敷はバタヴィア随一の美しいテイヘル運河沿いに構えた、家族と50人の奴隷奉公人が楽に住める広壮な邸宅だったという。バタヴィア社交界で華々しく活躍した。クノル氏が亡くなると法律家ヨハン・ビッターと再婚。彼はコルネリアの相続財産を奪おうとしたため両者の間で長く熾烈な裁判闘争が起きる。1691年頃、オランダで死去。

コルネリア
『クノル家の肖像』ヤコプ・ヤンスゾーン・クーマン作。(アムステルダム国立博物館所蔵)
右がコルネリア。隣りは夫クノル。左はその娘達。コルネリアの幸せの絶頂期の頃の絵。




註釈(5) 当時の貨幣単価の日本円換算について

江戸初期の「グルデン」(蘭)「スタイフェル」(蘭)、「テール」(中)に関して、日本円に換算する様々な史料はあるが、「1グルデンは日本の銀5.2~5.6匁に相当する」(『オランダ商館長の見た日本』横山伊徳著)と、「1ドュカッドはほぼ1テール、1テールは銀10匁にあたる」(『オランダ商館の日記』永積洋子訳、『バタヴィア城日誌』村上直次郎訳注)を基準とした。
それにより、1グルデン=1万円、1テール=2万円と考えた。
また、 1グルデン=20スタイフェルであることから、1スタイフェル=500円と考えた。




註釈(6) 父ヤックス・スペックスと継母マリア・オディリア・バウス

継母マリアの肖像は、ファン・ラヴェステイン作
(ハーグ美術館所蔵)

 

註釈(7)アンブロジオ・スピノラ Ambrosio Spinola, (1569年~1630年9/25)

アンブロジオ・スピノラ

ジェノヴァの名家スピノラ家(San Luca分家)に生まれる。ジェノバ国内での政争に敗れ、当時ジェノヴァの宗主国であったスペインの将帥として立つことを選ぶ。
1603年よりオーステンデ包囲戦に参加し、1604年にこれを陥落。30年戦争では、スペイン軍を率いて数々の華々しい戦果を上げた。
ヨーロッパ中に知られた攻城戦の名将である。

(掲載画はルーベンスが描いたもの。彼はルーベンスのパトロンであり友人でもあった。

 

註釈(8)カルロ・スピノラ Carlo Spinola (1564年 ~ 1622年9月10日)

カルロ・スピノラ

ジェノヴァ(もしくはプラハ)で生まれる。スピノラ家(Tassarolo分家)の出身。グレゴリオ暦を作成したクラヴィウスに師事し、暦学、天文学、数学、等を修得した。
1602年、イエズス会士として来日。1612年、長崎で月蝕を観測し、マカオの観測と合わせて長崎の緯度と経度を割り出した。京都では小天文台のあるアカデミアをつくり、数学や天文学を若者たちに教え、評判となる。
1614年、キリスト教禁教令に伴い潜伏布教。18年に捕えられ、長崎の鈴田牢に投獄。1622年、元和の大殉教で火刑に処される。
獄中で書いた書簡集『鈴田の囚人』(ディエゴ・パチェコ著 昭42、長崎文献社)は牢内の出来事を詳述した重要な一次史料である。

 

註釈(9)聖パウロ天主堂跡

聖パウロ天主堂跡

カルロ・スピノラが日本語習得のために過ごしたマカオで設計した建物。建設途中で日本に船出したため彼自身はその完成は見ていない。建設には日本人の職人も参加したと言われている。

1835年の大火災で前壁以外を焼失。現在はかろうじてその前壁(ファサード)を見ることができる。2005年にこの寺院を含むマカオの歴史地区がユネスコの世界遺産に認定された。

 

 

註釈(10)南蛮船のこうむった被害

「(日蘭貿易に於いては、)事実、当初は定期的に商品が平戸へ輸送されるということはなく、だいたいは敵船(ポルトガル船)からの掠奪品であった。」(『オランダ東インド会社の歴史』科野孝蔵著、P156)また、

「1629年から35年までの7年間で、オランダの船隊によって捕獲または撃沈されたポルトガル船は150隻を数え、損害額も750万セラフィンにのぼった」(同書、P169)という。
750万セラフィンは推定750億円である。




註釈(11)不干斎ハビアン(1565年~1621年)

 加賀あるいは越中で生まれる。臨済宗の禅僧だった京都時代に受洗し、1586年イエズス会に入会する。その後セミナリオ、コレジオでイエズス会の教育を受ける。
 天草のコレジオで日本語教師だった90年代、外人宣教師の為のローマ字表記による日本語テキスト『平家物語』『伊曽保いそほ物語』を編纂する(※原本は大英博物館webサイトで読むことができる)。京都下京しもぎょう教会時代にはキリスト教の教義書『妙貞問答』(1605年)を著す。また、イエズス会の論客として宗教論争の場にしばしば参加。京極マグダレナの葬儀ミサや黒田官兵衛三回忌追悼ミサの説教も任される謂わば〝日本一の説教師〟だったが、1608年、突然イエズス会を脱会し棄教した。
 1612年禁教令以後は長崎で幕府のキリシタン迫害に協力。1620年、『破提宇子』を将軍秀忠に献上する。この書はキリスト教とイエズス会内部を徹底批判し波紋を呼んだ。江戸時代の反キリスト教書の筆頭であり、明治政府が反キリスト教政策を取った際にも復刊(1868年)された。
 芥川龍之介の短編『るしへる』の主人公はハビアンである。また、山本七平が「日本教の開祖」と呼ぶなど、不干斎ハビアンは西洋思想と日本思想とを比較考察する上で、現在も思想家、宗教家に取り上げられる人物である。

 

註釈(12)ディエゴ・コリヤード Diego de Collado(1589?年生~1641年没)

スペイン出身のドミニコ会士。1619年来日し潜伏布教する。教皇庁の命により日本26聖人の列福調査書を作成。また、長崎、元和の大殉教を目撃し記録に残す。1623年離日し、35年以後再入国を試みるが果たせず、インド洋上で遭難死する。
著書の『羅西日辞典』『日本文典』『懺悔録ざんげろく』は「コリヤード三部作」と呼ばれ、日本語史研究上重要な資料である。

 

註釈(13)バタヴィア号事件

 本誌「その9」で―海に浮かぶ城―の様に登場した新造船『バタヴィア号』は、その半年後、凄惨な事件の舞台となった。以下の概要は、『難破船バタヴィア号の惨劇』(マイク・ダッシュ著)を参考にした。

 1628年10月下旬。
 アムステルダムの港にバタヴィアへの秋期船団18艘が終結。総船団長はヤックス・スペックスだったが、急用のできたヤックスに先んじ、バタヴィア号を含む7艘が10月28日、出航。
 1629年4月。
 バタヴィア号は喜望峰を出た後、嵐に流され船団から離れて行方不明となる。
 同年6月4日未明。
 バタヴィア号はバタヴィアの遙か南方(現、オーストラリアの西海岸沖60キロ)で岩礁に衝突し、座礁。その衝撃で船は倒壊する。乗員、乗客332名の内、91名は倒壊に伴う事故死、溺死に至る。船の指揮官や軍人らは救援を求めて小型船で脱出。残りの180名は命からがら無人島に流れ着く。
 この180名の中にサイコパス、イエロニムス・コルネリス(30才、商務員補)がいた。
 彼はプロテスタントの異端アナバプチスト派(その中でも過激派の、キリストの再臨と千年王国を狂信する一派)の家に生まれた。長じると、アムステルダムの異端思想家ヨハネス・ファン・デル・ベーク(霊的自由派)の門弟となる。これらによりイエロニムスの特殊な信仰―「自分の全ての行動は全能の神の啓示によるもの」であり、「罪と思わなければなにごとも罪ではない」―が形成された。師ヨハネスのセクトはオランダ改革派教会があらゆる宗教、宗派の中で最も危険視したもので、ヨハネスは秘密結社「薔薇十字団」の首謀者として捕えられ、仲間達は身を隠した。イエロニムスもまた逃亡の手段としてVOCの商務員補となり国外に脱出したと考えられる。
 イエロニムスは航海中、バタヴィア号を乗っ取り、金銀を含む40万ギルダーの積荷を奪い、大儲けする計画を立て仲間を集め出した。座礁事故はそのような中で起きた。
 無人島に辿り着いた180名の内、沢山の武器を隠し持っていたイエロニムスが島の王となった。
 無人島に食糧も水も少なかった事と、船乗っ取り計画の発覚を恐れ(発覚すれば死罪)た事で、イエロニムスとその仲間は自分達に不利な人間の殺害を開始。殺害を続ける内に、人を殺す事自体に快感を覚えるようになる。死者は6週間で(推定)124名に及んだ。
 9月17日。
 他の島に渡り、水と充分な食糧を見出した軍人らと、バタヴィアに行き、救援隊を要請した指揮官らが無人島に戻り、激しい戦闘の末、イエロニムスらを制圧。イエロニムスは臨時軍法会議にかけられ、直ちに絞首刑となる。
 手下らはバタヴィア政庁で裁判と刑罰をうけるためにバタヴィアに連行された。
 12月5日。彼らはバタヴィアに到着し、バタヴィア城の地下牢に監禁された。
 1630年1月末。東インド総督ヤックス・スペックス率いる評議会は彼らを裁判にかけ、厳しい処罰を下した。

 バタヴィア号事件は、海事年代記の中でも最大の事件と言われている。
 事件の詳細は『難破船バタヴィア号の惨劇』(マイク・ダッシュ著、アスペクト発行、2003年)にくわしい。






註釈(14)『FORMOSA UNDER THE DUTCH』

『FORMOSA UNDER THE DUTCH』はREV.WM CAMPBELLの編訳本として1903年ロンドンで刊行された。
オランダの台湾統治下における各種資料や台湾政庁の書簡類(オランダ語)を英訳してまとめたもの。
そこに所収された「Account of the Inhabitants」―台湾報告―は、カンディディウスが新港社で16カ月伝道する間に平埔族シラヤ人と呼ばれる新港の人々の生活、風俗、習慣を深く観察し東インド会社に1627年に提出したもの。
台湾原住民についての外国人による初めての記録と言われる。

註釈(15)『エウロペの誘拐』

レンブラント作。ヤックス・スペックスの依頼により1632年に制作された。(米ロサンゼルスのポール・ゲッティ美術館所蔵)。
美術史家ら(Mariet Westermann や Gary Schwartz)は、この絵をスペックスの経歴(東西交易の立役者)と関連性あるものと解釈している。スペックスはこの絵を含むレンブラントの作品を7点所蔵していた。

註釈(16)―レンブラントと和紙との関わり―

 レンブラントが銅版画に和紙を使っていたことは知られている。
『レンブラントと和紙』(2005年、貴田庄著、八坂書房)で、筆者は「和紙がいつ、どのような経路で画家の手に渡ったのか」について、先行研究や公的文書(平戸オランダ商館の日記、長崎オランダ商館長日記、バタヴィア城日誌等)の分析から、
オランダ商船に輸出用に和紙が搭載され、それがアムステルダムにまで届き、レンブラントが和紙を購入して使い始められるのは1()6()4()6()()以降(・・と考察する(P154)。
〝和紙が使われた最初の作品は、1631年制作の『胸に手を置く画家の母』(B-349)である〟ことと、その1646年とのギャップを、〝銅版(・・)の制作年〟と〝実際に和紙に刷った(・・・)年〟に隔たりがあるのではないかと推測されている。

しかし、ここに「ヤックス・スペックス」の存在を置いてみれば、〝和紙が使われた最初の作品が1631年〟というのも不自然ではない。絵の注文のために両者が交流を持つのは1632年(『エウロペの誘拐』の制作年)より以前と考えられるから。
 本文のような(ヤックスからレンブラントへの贈与といった)場面もあり得るのではないかと私は考えた。

胸に手を置く画家の母(1631年)

 

註釈(17)熱蘭遮城

ゼーランディア(Zeelandia)城=台南にある現在の安平古堡(あんぴんこほ)とその周辺。
台南突端の砂州にオランダが1624年から建設を開始し、32年第1期工事が完成。城堡は台湾における最も古い西洋城だった。
本文の絵図の右が城堡、中央には刑場のある広場、左はオランダ人市街で、ゼーランディア城はこの三つの部分から成っていた。台南はVOCの東アジアにおける重要な中継貿易港であり、港には多くの船が停泊した。
1628年、長崎代官末次平蔵の部下、浜田弥兵衛と台湾長官ピーテル・ヌイツとの間で起きたタイオワン事件(浜田弥兵衛事件)の舞台となる。
1662年、明の鄭成功軍が城への攻撃を開始。オランダ軍は敗れ台湾からの撤退を余儀なくされる。のちに鄭成功はこの城堡を居城とした。

 

註釈(18) ロベルツス・ユニウス

1606~1655。 ロッテルダムで生まれ、ライデン大学卒業後、東洋宣教へ向かう。29年に台湾に着任。カンディディウスを補佐し、台湾布教を発展させる。帰国後、アムステルダムで司牧に従事する。

この絵は、「ロベルツス・ユニウスの肖像」
 Cornelis Visscherの銅版画(1654作)
(アムステルダム国立美術館所蔵)

註釈() 
「ガリラヤの海の嵐」

ガリラヤの海の嵐

レンブラント絵画において、この作品のように聖書を題材としたものは少ない。また、海を描いた絵はこの一点のみである。

『ガリラヤの海の嵐』
レンブラント作。1633年制作。
ヤックス・スペックスの依頼による作品   
(~1990年までガードナー美術館が所蔵)

註釈(18)
『熱蘭遮城日誌』

『熱蘭遮城日誌』1~4(江樹生 譯註 台南市政府発行)1999~2010年刊行。オランダの台湾統治時代の基礎史料「De Dagregisters van het Kasteel Zeelandia,Taiwan」(オランダ語)の中国語訳。1629年~1662年までを集録する。日本語訳は未刊。

註釈(19)
カンディデュウス湖

日月潭

台中にある台湾最大の湖、日月潭(にちげつたん)
かつて欧州の地図には「カンディデュウス湖」と書かれていた。

この写真は日月潭(撮影・高宏玮氏)

註釈(20)
 正義の剣

正義の剣

正義の剣(ジャカルタ歴史博物館 所蔵)
          
写真は西見恭平氏HP『ジャカルタ新旧あれこれ』2009/10/19掲載のもの。
※現在、この剣は展示されていない。