『サラ・スペックス、知られざる少女。』その10

平山船
第五章 父ヤックス・スペックス
ーC スペックス再度の弁明 ―平山常陳事件を語る➀ー平山船

 

 

 

 

 ペックスは、ハンブルが「どうしても解せない点」が平山 常陳 じょうちん事件だと知った時、
 ――亡霊どもがオランダまで俺を追いかけて来た。
 そう思い、じっとりと脇汗をかいた。
 亡霊とは、日本で処刑に追い込んだ二人の神父である。

 さて、ロベルト・ハンブルの主張はこうだった。
「1620年の経営の悪化は、「平山常陳事件」とやらへの深入りが原因では。報告書を拝見しますと、この時期、商館業務が甚だしく滞っておりますな。ご説明願いましょう」
 平山常陳事件! あの、気の遠くなるほど長かった裁判事件をどう弁明すればいいというのか。
 私はベンヤミンに「すまん。もう一度力を貸してくれ」と言い、彼は、
「閣下、さあ、頭をお上げ下さい。遠慮なく、私にお命じください」を繰り返した。
 私はこの頼もしい部下に、こう言わずにはおれなかった。
「一対九で完全に不利な事件だったのだ!しかし、大逆転をもぎ取り、最終的にはイギリス商館をも蹴落とし、我々が独り勝ちに至った、それはそれは長く苦しい事件だったのだ」

 1620年7月22日。
 オランダ・イギリス連合船隊の中の一隻『エリザベス号』は台湾沖で一隻の外国船(ジャンク船)を発見。
 船長エドモンド・レニスは「お宝船だぞー!」と叫んだ。船員らは色めきだって直ちに追撃を開始した。
 そして――

 


 ここまで書いて、私、葉葉は長考に入ってしまった。
 この平山常陳事件とは、幕府が鎖国に踏み出すきっかけとなった重要な事件である。しかし、西洋キリスト教史を知らなければ、ただの退屈な話で終ってしまう。
 話の腰を折る事をお許し願い、キリスト教に暗い方のために(実際、新旧両派合わせても日本のキリスト教徒は人口の1%に満たない)、当時の西洋のキリスト教界を略述したい。
 ヨーロッパの16,17世紀とは、それまでのカトリック教会が、ローマ・カトリックとプロテスタントに分断される潮目の時代である。
 西洋は中世から近世にかけて教会が社会を支配する時代が続いた。ローマ教皇の権威は王権を上回り、神のしもべのはずの聖職者は庶民の頭上に君臨した。果ては「免罪符」の販売である。この腐敗したキリスト教界に一石を投じたのが神聖ローマ帝国(現ドイツ)のアウグスチノ会士マルチン・ルターだった。
 彼は1517年、ヴィッテンベルク城の教会の門に「95か条の提題」を掲示。ローマ教皇に対し、教会の刷新と公会議の開催を訴えた。グーテンベルクの活版印刷機の登場が功を奏した。印刷機で印刷されるやそれは国中に広まった。すると欧州各地でくすぶっていた教会への不平不満に火がついた。信仰面では宗教家や信徒が、権力面では諸侯が次々に立ち上がった。
 ルターの訴えはざっくり言うとこれだ。
「イエス・キリストの御言葉みことば、すなわち聖書(福音書)のみが原点である。教会よ、そこに立ち返ろう」
「教皇を頂点とする位階制はおかしくはないか?」
 ルターの訴えに対し、教会は聞く耳を持たなかった。4年後にはルターを破門。国外追放されたルターには命の危険さえあったが、捨てる神あれば拾う神あり、ザクセン侯フリードリヒ3世がルターを保護した。その城の中でルターは聖書をドイツ語に翻訳し出版した。「聖書」が一般大衆に開放されたのである。それまでのラテン語の聖書は大衆には読めないものだった。
 カトリックのマリア崇拝も、のちの改革者達の攻撃する所となった。
「マリア崇拝を否定する言葉をイエス自身が発している。例えば、ルカ伝11章27節、マタイ伝12章46節」
 当小説の「その3」で、少女サラが、聖母マリアの御絵ごえを、「クーン様、エファ様がご覧になったら捨てておしまいになるから」宝箱の中に隠した、というのにはそんな背景がある。
 ルター以後、ツヴィングリ、カルヴァンはスイスで宗教改革に着手し、カルヴァン派はその後、ネーデルラント、イングランド、スコットランドへと広がり、数え切れない程の争乱を各地で引き起こしながらヨーロッパの宗教地図を大きく塗り替えていった。

 一方、ローマ・カトリックでは〝対抗宗教改革〟が起きた。ローマ・カトリック内部の改革運動である。イエズス会、ウルスラ会、カプチン会等々新しい修道会が誕生した。イグナチオ・ロヨラと6人の若者が作ったイエズス会は、「世界の果てまで福音を伝える」という基本姿勢を持つ。大航海時代の到来がそれを可能にした。
 1549年。創立メンバーの一人、フランシスコ・ザビエルは東洋を経巡ったのち、日本に上陸した。彼は東の果ての島国に、文化を持ち、国家体制を持ち、識字率の高い国民がいることに驚嘆する。ザビエルは辻説法し信徒を獲得していった。そして、その経緯を逐一、本部に報告した。
 中でも「大書簡 Great Letter」と呼ばれる「書簡90」「96」はイエズス会本部に届くやすぐに印刷され、全欧にあまねく広まった。他の修道会でも昼食時にはこの書簡がよく朗読されたのだという。
 書簡には「日本人」についてこのように書かれている。
 いわく、
「この国の人々は今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人々は、異教徒の間では見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人々で、他の何よりも名誉を重んじます。(書簡90)」
 いわく、
「日本の人々は慎み深く、また才能があり、知識欲が旺盛で、道理に従い、またその他さまざまな優れた資質がありますから、彼らの中で大きな成果を挙げられないことは「絶対に」ありません。数々の労苦は光彩を放ち、またその光が永遠に輝き続けますように。(書簡96)」
 いわく、
「この山口の町で2ヶ月が過ぎ、さまざまな質問を経たのち、500人前後の人たちが洗礼を受け、そして今も神の恩恵によって日々洗礼を受けています。(略)彼等は深い愛情を持って私たちに接してくれます。彼らこそ真実な意味でキリスト信者であります。(書簡96)」
 ザビエルさん、褒め過ぎですよ、と言いたい程のベタ褒めだが・・、それはともかく。
 ザビエルの日本滞在は二年間に過ぎなかったが、その後、西国大名たちの――南蛮船を招致したい思惑もあっての――受洗とそれに伴う領民の集団改宗によって宗門は栄え、30年後(1579年)には信徒数13万人に拡大した。
 日本はじめ世界各地での布教の成功により青二才の弱小集団・イエズス会の株、急上昇である。それに負けじとカトリックの老舗修道会、フランシスコ会、ドミニコ会等も海外に船を漕ぎ出した。プロテスタントに押され続けたローマ・カトリックは、新たな宣教時代に希望を見出したのだった。
 イエズス会には理想に燃える若者の入会が相次いだ。7人でスタートしたイエズス会は、前述の1579年には5.000人の大所帯となった。
 その年に来日し、日本布教に尽力したのが巡察師ヴァリニャーノである。
 織田信長はヴァリニャーノを歓待した。大村純忠、有馬晴信ら西国大名たちも彼に全幅の信頼を寄せた。名プランナーとして最も有名なのは、天正少年使節団の派遣であろう。和服の正装で凛々しくふるまう東洋の四王子は、西洋人に強い印象を与えた。彼らはパイプオルガンも演奏すればラテン語でスピーチもできた。ポルトガルに上陸以来ローマに着くまでの長い道中の先々で王や貴族、庶民に熱狂的に歓迎された。ローマ入城の際には騎兵隊や騎士、聖職者達の行進に続き、300発の祝砲響く中で華々しく入城したのだった。欧州に一大「日本ブーム」が起きて、少年使節団に関する100種類もの本や小冊子が出版されたという。その頃が日本のキリシタン宗門の最も幸福な時代である。
 使節団がヨーロッパに向けて出航したその年、1582年、本能寺の変が起きた。秀吉の世になると、対キリスト教政策は一変する。秀吉はイエズス会の日本侵略を疑い「伴天連追放令」を発布。更にサン・フェリペ号事件から、26聖人の処刑に至るが、宣教師の報告書によってそれらもまた海外に広く知れ渡ることとなった。
 小説「その2」で、バタヴィア城で初めてヤックス・スペックスと対面したカンディディウス牧師が、「日本布教」への熱意をこれでもかと語り、元商館長を辟易させる場面がある。それは、牧師が日本を熟知していたからであり、日本という「主の葡萄畑」―つまり、信仰の為に火にも焼かれる新しい信徒達ーへの憧憬が彼の中にあったからである。

 さて、西洋の争乱に戻るが、ルター以後100年間に起きた宗教戦争の中に、「オーステンデ包囲戦」(1601~04)というのがある。
 ヤックス・スペックスが十代の頃、この包囲戦に参戦したことが分かっている。南部ネーデルランドの港湾都市オーステンデをめぐる、防衛軍(プロテスタント)VSスペイン軍(カトリック)の攻防戦であった。最初、防衛軍が優勢だったが、スペイン軍に指揮官アンブロジオ・スピノラ Ambrosio Spinola 註釈(7)が着任するや形勢は逆転しスペイン軍が勝利を収めた。この敗戦をヤックスは身を以て経験したのだった。
 アンブロジオ・スピノラなる人物は、〝鈴田の囚人〟カルロ・スピノラ Carlo Spinola 註釈(8)と同じスピノラ一族である。スピノラ家とはイタリア北部ジェノバの四大名家の一つであり、ジェノバ総督や枢機卿を輩出した名門だ。コロンブスを雇った豪商でもある。カルロは天文学、暦学、数学、建築学に秀でたルネサンス的天才であり、来日直前のマカオで聖パウロ天主堂 註釈(9)の設計を手掛けてもいる。この天主堂は現在マカオ一有名な建物だ。
 カルロ・スピノラは日本で潜伏布教中の1618年に捕縛され、長崎・鈴田牢に入れられた。ヤックスが平戸オランダ商館長時代である。
 ヤックスはこの囚人が、少年期に見た敵将アンブロジオの血縁であることを知っていただろうか?カルロ・スピノラの出自は平戸の西洋人の間では話題になっていたかもしれない。
 1621年、カルロは、平山事件の裁判の際、カトリック側の証人として平戸城の奥の間に繩手のまま引かれてくる。奥の間に集ったのは、平戸の殿はじめ、長崎奉行、長崎代官他のお歴々、カルロ・スピノラら三人の宣教師と当事者となった二人の囚人(スピノラ以下の五人はのちに殉教)、更に、有名な転びバテレン・トマス荒木まで招集された。キリシタン時代のスターたちが一堂に会したわけだが、この大舞台に、もしもヤックス・スペックスが同席していたなら、彼の眼は、ただ一人、カルロ・スピノラに注がれたであろう。カルロは長い獄中生活で痩せ細り、擦り切れたボロ布をまとい、髪も髭も伸び放題であったが、そのたたずまいには独特のものがあっただろう。ヤックスはその背後に馬上で胸をそらす武人アンブロジオを思い出したに違いない。
 平戸城での裁判は1621年11月25日。ヤックスはその直前に日本を離れたと推定されるので、そんな場面は訪れなかっただろうが。

 さて、ルターの宗教改革から101年目。無数の争乱の総決算となる宗教戦争が1618年に勃発する。
 それが「30年戦争」である。
 1618年から30年間に渡る、ドイツを舞台に、プロテスタントとカトリックの王や諸侯が入り乱れた最大の戦いである。この戦争は、途中、宗派など関係ないヨーロッパの覇権を巡る国際紛争へと拡大した。ドイツの国土を荒廃させ、人口の三分の一を失わせ、ペストの大流行まで生み、ヨーロッパ中に打撃を与え、ようやく〝ウェストファリア条約〟によって終結したのだった。条約はこう結論した。
「プロテスタントとローマ・カトリックははっきりと分断された。一つに戻ることはない。以後はお互いを尊重し干渉しないこと」
 イエス・キリストを親とする同胞(はらから・・・・)が完全に袂を分かった。のみならず、近親憎悪・・・・がこの両宗派にはついてまわることとなる。

 用語のおさらいをしよう。
 プロテスタント=新教=北ヨーロッパ(ドイツ、スイス、オランダ、イギリス)で発展=紅毛国である。紅毛とは、北欧の髭や髪の赤い人々を指す中国語。オランダ改革派教会、オランダ商館はこちら側。
 カトリック=旧教=南西ヨーロッパ(イタリア、フランス、スペイン、ポルトガル)が本拠地=南蛮国である。南蛮とは南の蛮族の意味の中国語。イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会はこちら側。
 ちなみにプロテスタントの教導者は〝牧師〟、カトリックは〝神父〟と呼び、神父は独身制をとる。〝パードレ〟〝パーデレ〟はポルトガル語で〝父〟の意味のPadreで神父も指す。日本では〝伴天連、バテレン〟とも呼ばれた。
 
 サラ・スペックスの誕生が1617年。その翌年からヨーロッパでは30年戦争が始まるので、サラの生きた時代は、30年戦争と重なる。オランダに焦点を絞れば、オランダの独立戦争にもあたる。対日貿易の覇権争いの背景がそれである。オランダはスペインの支配から独立する為、国力と軍事力の増強が急務であった。その為には何としても日本の金銀を手に入れる必要があった。

 


十七人重役会
十七人重役会

 1628年。
 アムステルダムのオランダ東インド会社本部。十七人重役会の会議室に戻ろう。

 ヤックスが再度の弁明を命じられてから一か月後、清教徒ロベルト・ハンブルを中心に会議室の円卓には再び十七人が顔を揃えた。
 ヤックス・スペックスはこう口火を切った。
「複雑な、実に複雑な事件でございました! 」

 
 

 ――1620年7月22日。
 オランダ・イギリス連合船隊*の中の一隻『エリザベス号』は台湾沖で、ルソン(マニラ)から日本へと向かう一隻の外国船(ジャンク船)を発見。(*蘭英は小説「その4」「その5」のバタヴィア城包囲戦では敵同士だが、利害が一致すれば手も組んだ。)
 船長エドモンド・レニスは「お宝船だぞー!」と叫んだ。
 船員らは色めきだって直ちに追撃を開始し積荷を強奪した。
 30年戦争真っ最中の蘭英にとって、南蛮船への攻撃は戦争の一環であり、まだ商品の仕入れ先を開拓中の蘭英にとって、〝戦利品〟は即〝日本向けの商品〟に化ける。外国船は、願ってもないお宝船〟だった。註釈(10)
 しかし、単なる外国船と思ったこの船は、まずいことに「ご朱印船」であった。
 船長、平山常陳は「朱印状」を振りかざして怒鳴った。
「オランダよ、イギリスよ、お前らの度重なる海賊行為をお上に訴えて、お前らを日本から叩き出してやる!」
 朱印状とは徳川幕府がお墨付きの船に発行した書状である。朱印船へ危害を加える船に対し幕府は厳罰を下した。船長、船員のみならず、商館長の処刑や商館のお取り潰しさえありえた。
 そこにイギリス船員達が大声で甲板に上がっていた。
「おーい、とんだものを見つけたぞ!」
神父パードレだ。パードレを見つけたぞ!」
 甲板は騒然となった。
 船底から二人の人物が連行されて来た。一人は青年。一人は老人である。鹿皮の積荷の間に隠れていたという。スペイン商人に扮していたが、所持品の中からミサ祭具や修道会総長の書簡が発見されたのだった。
 常陳らは気色ばんだ。
「馬鹿を言うな!どこが神父だ! この者らはスペイン商人だ!」

 ウィリアム・アダムス(三浦按針)の来日により、家康はヨーロッパに南蛮、紅毛両派があることを知った。そしてしばらくの間、南蛮の動向、紅毛の動向を注意深く観察した。紅毛人は家康に「南蛮宣教師の来日の目的は、日本を奪う為」と進言。「まず宣教師を派遣し、信徒を増やし日本人を手なずけてから日本を占領する。それが南蛮のやり口なのです」。南蛮人も黙ってはいない。紅毛の非道を訴え続けたが、家康は貿易に宗教を持ち込まないアダムスらを信頼した。
 1612年、幕府は岡本大八事件により「キリシタン禁令」を発布。岡本大八とキリシタン大名有馬晴信を処刑した。14年には宣教師と高山右近ら宗門の要人たちを国外追放。16年、全ての日本人にキリスト教を禁止する。19年、京都の信徒52名を処刑。また長崎の教会を全て破壊。
 こうして幕府は切支丹撲滅政策を次々に打ち出したが、いかに取り締まろうとも撲滅は出来ず、宣教師の密入国も防げずにいた。幕府は西洋の軍事力を恐怖した。切支丹の団結力も脅威であった。そもそも〝死をも恐れぬ信仰心〟が理解を超えた。幕府は訴人そにんを奨励。「パードレ一人につき、銀の延棒30本」を褒賞金とした。賞金稼ぎが跋扈ばっこするのもこの時代である。
 船底から見つかった二人が「パードレ」ならば、形勢は一気に逆転する。
 蘭英は宣教師入国を阻止した事で幕府から称揚される。そして、幕府は南蛮船ばかりか朱印船さえ危険視するだろう。蘭英にとってアジアの海を縦横無尽に駆け回る朱印船は目障りこの上もなかった。朱印船が消えれば、東アジアの広大な海域は自分達の独壇場となる。
 日本で首を斬られ、対日貿易も危うくなるのか、平山常陳らの首を斬り、朱印船さえアジアの海から追い出せるか。

 その鍵は、「二人は何者か」、その一点にかかっていた。

 蘭英は二人が宣教師であることは直ちに立証されると考えた。また、ある船員が、囚人の一人を「見覚えがある」と言った。以前日本で潜伏布教していた神父に似ていると。ならば目撃証人もすぐ見つかるだろう。
 一方、平山常陳は、平戸、長崎という地の利から――商人、庶民はもとより権力者たちも南蛮貿易と深く結びついていたから――証拠不十分で二人が早々と釈放されることを信じて疑わなかった。こんな土壇場を逃げ切ったのも一度や二度ではなかったのである。 

 
 

その11 へ つづく