『サラ・スペックス、知られざる少女。』その9

スベックスの弁明

第九章 父ヤックス・スペックスーb スペックスの弁明
      —スペックス、江戸幕府の賄賂体質を語る—スベックスの弁明

 

 

 

 こで、元平戸オランダ商館長ヤックス・スペックスが、1627年からの2年間、娘サラをバタヴィアに残したまま、オランダ滞在を余儀なくされた理由をお話しせねばならない。

 彼は1609年に日本に渡り、ウィリアム・アダムス(三浦按針)らの協力のもと、平戸オランダ商館を立ち上げ、その初代商館長に選ばれた。スペイン、ポルトガル(南蛮国・カトリック)が享受していた貿易利益をオランダ(紅毛国・プロテスタント)が奪い取れたのは、強運の男ヤックス・スペックスの手腕に他ならない。同じ紅毛国のイギリス商館長リチャード・コックスも又この男の前に敗れ去ることになる。

 徳川家康は実権を握ったのち、しばらくはキリシタン宗門の動きを静観していたが、西国大名の力の拡大―つまり、大名らの貿易利益とキリシタン勢力結集―を恐れ、手始めとして、1614年、「伴天連追放令」を発布し、高山右近、内藤如安ら有力キリシタンと宣教師らを根こそぎ国外追放した。―キリシタン史ではこれを「大追放」と呼び、この年を大きな分岐点と考えるが―、家康はキリスト教を完全禁止とし、西国大名の勢力を抑え込んだ上で「大阪の陣」の火ぶたを切ったのである。家康の読みは当たった。西軍は敗北した。1633年に始まる鎖国は西国を支配下に置き、日本全土を掌握する為の幕府の重要な施策であった。

 スペックスは鎖国前夜、大転換期の日本で十三年間商取引に携わった。家康、秀忠にも度々謁見し、平戸藩主松浦隆信には殊に篤い信頼を寄せられた男である。

 オランダ滞在中のスペックスへのある日の審問は、こうだった。
「1619、20年の収益の落ち込みについて弁明するように」

 それこそがスペックス招集の第一目的であった。十七人重役会が知りたいのは、彼が密貿易 (違法な個人貿易) に手を染めなかったかということなのだ。時に商務員らは密貿易に血道を上げ、本社はその取り締まりに躍起になった。

「平戸商人、長崎商人と密談はしなかったか?」
「私物の購入に経費を流用しなかったか?」

 平戸の現商館長コルネリス・ファン・ナイエンローデ Cornelis van Neijenroode による多額の密貿易 註釈(4) が噂され始めていた。本社は内偵を開始し、スペックスはそのあおりを受けたのだった。

 東インド(=東洋)への航海が命がけなのに対し、給与はそれに見合わなかった。商務員補の月給は8グルデン(1グルデン=約1万円)  註釈(5)。下級商務員は25グルデン。一方、密貿易の誘惑は常に目の前にあり、誰もが誘惑に落ちた。上級商務員、商館長と地位が上がれば給与ははね上がるし、密貿易も、し放題なのである。

 商務員らは酒に酔うと必ずこんな歌を歌った。
商館長様オツベルは年収3万グルデン。密貿易も3万だぜ。2年も勤めりゃ、国に帰って一生遊び暮らしよ!

 商館長は年収6億円も夢ではないというのだ。地の果ての勤務を本社が監視できるはずもない。多少のことには目をつむった。要は、会社が怒り出す程のあこぎな真似はするなということなのだ。
 スペックスは幾つもの切り札を用意して重役会議に臨んだ。
「皆様のお疑いはごもっとも」

 十七人の面々が重厚な円卓を取り囲んでいた。国内6支社の代表者である。十七人重役とはVOCの最高位であり、それはオランダ経済界のトップを意味した。若き日の美男子は容貌に苦味を加え、男でさえも味わいを深め、名声と富、そして国を背負って立つその矜持が彼らをして一目で「しかるべき人物」と感じさせる風貌に仕上げていた。寛容をモットーとしながら、何かあれば検察官の如き追及の矢を放つ重役達。その十七人がスペックの弁明の隙を待ち構えていた。対するスペックスはたった一人で戦わねばならない。
 スペックスは咳払いを一つし、肝を据えると、こう切り出した。 

「日本の閣老、奉行、役人達のとんでもない賄賂体質をあなた方は御存知ない。ご存知なければ多額の出費に〝使途不明金〟の印象を持たれたことでございましょう」
 円卓の上にベンヤミンが分厚い帳簿を置いた。それは江戸幕府関係者への「贈答品目録」だった。 

「オランダ船の遙か昔から、南蛮船は日本との貿易を行っておりました。そのような地で新参者がどれほどの袖の下を要求されるか、それは想像もつきますまい。まず本拠地平戸でございますが、貿易船が着いた途端に藩主の使いがやってくるのです。〝殿はアラク酒を御所望だ〟とか〝上質の絹織物はないか〟と、たかり攻撃です。まだ旧債があっても借金の申し込みさえなさる。そして、やれ、正月だ、中元だ、やれ、慶事だ、弔事だ。その度に私共は舶来品を献上せねばなりません」
 スペックスはよどみなく語った。
「毎年毎年、平戸藩主・松浦隆信殿に上質の生糸、絹織物、酒、各種ガラス器を。同様のものを奥方様に。弟君五名にもそれぞれ高価な品々。家老、第一秘書、役人頭等々、絹織物、鹿皮、鮫皮、葡萄酒、孔雀、鸚鵡、あれやこれや。かれらの欲望には際限がございませんでした!」

 重役らは腕組みをし耳を傾けた。

「平戸藩がこうですから、江戸参府の経費たるや怖ろしいほどでございます」
 江戸参府はスペックスの時代に開始された。日本国王への恭順の印であり、交易願いである。

 オランダ商人20名。日本の使用人30名。平戸藩からの護衛20名。総勢70名程が平戸を出発し、小倉、明石、大阪を経て京の手前で装束を整え、入京。そこから江戸へ上るに際し、更なる格式を命じられる。行列には200名以上の幕府派遣の武士、役人、更に50頭以上の馬が加わり、膨れ上がった大所帯で江戸までの百二十五里を練り歩くこととなる。
 この、平戸から江戸に至る30日間、足止めを喰らえば60日間の一行の食費、宿泊費、これが商館の財政を圧迫するが、それはそれ。西洋人を指さし、「テング、テング」「異人サン、異人サン」と囃し立てては民衆がゾロゾロと行列に付いてくる。挙句の果ては旅籠屋を取り囲み、塀を壊さんばかりの騒ぎを起こす。まあそれもそれ、じきに慣れた。
 贈答品である。恐ろしいのは。
 国王お目通りの為の、各方面への口利き役となった松浦殿、長崎奉行長谷川権六殿、その下役たち、海道と街道の要所要所、京を出れば、大津、浜松、駿河、各地の領主と要人達、登城の際には、大御所家康殿、将軍秀忠殿。大御所と将軍には平戸候の数十倍の高価な品を。加えて、大砲、武器、火薬類、また、西洋の時計、地球儀、天球儀の類まで。奥方様、お子様達はもちろん、閣老、そのお付きの者達、果ては何の益につながることやら殿中の茶坊主頭ども、無数の表坊主らにまで、身分に応じた品々を遺漏なく、求められるままにあらゆる舶来品を献上しなければならないのだ。挙句の果て、「貴殿らの要求は厳に控えるように!」と閣老から釘を刺される始末。断腸の思いで最上品を卑屈なまでに平身低頭、献上したところで、いかなる貿易につながるのかは、実に彼らの気まぐれと時の運にかかっているのだ。

ケンペル『日本誌』

ケンペル『日本誌』より

「幸い、将軍様は、南蛮人が持ち込むキリスト教排除への道を探っておりました。我々は貿易から信仰を切り離しましたので、将軍の両天秤は、我々に傾きつつありました。そして皆様が問題とする1619年でございます」

 スペックスはこの日のために、ベンヤミンはじめ有能な部下達に贈答品目録のオランダ語の写しを三部作らせた。一部が円卓の左に運ばれ、一部は円卓の右に、もう一部は最奥の議長の前に恭しく運ばれた。

 重役達は三群に分かれて帳簿を囲み、眼鏡をかけ、ルーペを取り出し、帳簿に対峙した。カサカサと紙を繰る音のみの、しばしの沈黙が流れた。

江戸参府献上品ー江戸参府に際しての贈答品目録・元和五年(1619年)

【日本国王、徳川秀忠殿へ】
半カルトウ砲 四門。6800グルデン15スタイフェル
火薬12樽、霰弾12包、その他の備品をつけて。2100グルデン8スタイフェル
オランダ産繻子サラサ10反。葡萄柘榴ざくろ文様。赤色の子に文様を金糸銀糸で織り込んだ品。534グルデン10スタイフェル
ペルシャ産毛氈もうせん1枚。ギルガメシュ王物語の一場面。520グルデン18スタイフェル
ベネチア産絨毯1枚。薔薇色の天鵞絨ビロードの織物。153グルデン
ベネチアワイングラス一揃い。58グルデン2スタイフェル
大著1冊。大砲はじめ各種武器の使用法の詳細を記したもの。41グルデン10スタイフェル
白檀 300斤。105グルデン8スタイフェル
鼈甲、象牙の工芸品 桐箱一竿分。720グルデン9スタイフェル
ナツメグ、クローブ、各12壺(薬用として)。34グルデン
シナ産の綸子(りんず) 10反。302グルデン5スタイフェル
その他、珍奇な鳥獣。芸をする犬、歌を歌うカナリア、孔雀。
572グルデン19スタイフェル

国王夫人、お江様へ
シナ産の縮緬10反。龍と鳳凰の吉兆文様。822グルデン12スタイフェル
シナ産天鵞絨1枚。臙脂えんじ色の地に蓮花と唐草を天鵞絨で織ったものに金箔糸を織り交ぜた豪華な織物。 180グルデン8スタイフェル
西洋の湖畔と西洋の城の絵。103グルデン6スタイフェル
大輪の花模様の大花瓶1個。280グルデン10スタイフェル
美麗に彩色された鏡台 宝箱付き。中には真珠、赤珊瑚の装飾品など多数の宝飾。650グルデン12スタイフェル
砂糖漬けの果実1樽。42グルデン14スタイフェル
最上級の伽羅、沈香等 52斤。1952グルデン7スタイフェル 

国王の継子殿へ
シナ産の絹織物10反。202グルデン8スタイフェル
オランダ産繻子10反。182グルデン10スタイフェル
ペルシャ産衣服一式。胴着一枚。48グルデン
望遠鏡。231グルデン
宝石を嵌めこんだ短剣。88グルデン2スタイフエル
インド馬1頭。348グルデン11スタイフエル  

継子殿の弟君へ
赤縮緬10反。67グルデン8スタイフェル
白縮緬10反。59グルデン6スタイフェル
母犬と仔犬4匹。銀色の猫2匹。216グルデン

国王の第一の閣老、酒井雅楽頭忠世殿へ
羅紗らしゃ二反。81グルデン5スタイフェル
黒羅紗二反。77グルデン14スタイフェル
縞模様の繻子(サラサ)四反。82グルデン4スタイフェル
模様入り花瓶1個。24グルデン8スタイフェル
鼻眼鏡10個。22グルデン6スタイフェル

その長子、酒井忠行殿へ
赤縮緬二反。13グルデン19スタイフェル
小羅紗二反。72グルデン
ペルシャ産毛氈1枚。283グルデン6スタイフェル
鮫皮10枚。32グルデン8スタイフェル

「ふーむ」
 重役らがため息を漏らし始めた。
 贈答の宛名、品物、その金額の詳細。これが後から後から続いた。

【国王の第二の閣老、土井大炊頭殿へ】
【その長子へ】
【国王の第三の閣老、青山伯耆守殿へ】
【その長子へ】
【本多上野介殿へ】
【酒井備後守殿へ】
【安藤対馬守殿へ】
【井上主計頭殿へ】
【水野監物殿へ】
【雅楽頭殿の取次人へ】
【大炊殿殿の取次人へ】
【伯耆守殿の取次人へ】

 重役らは目録が更に何十枚も続くのに音を上げ始めた。

【江戸町奉行二人へ】【京町奉行二人へ】【大坂町奉行一人へ】【平戸候に。国王謁見に至る御骨折りの謝礼として】【平戸候の親友であり、貿易の推進に御骨折りのあった四閣老へ】【平戸候の書記へ】【平戸候の貴族へ】・・・・・・【平戸候とその一族、すなはち、長子、母、下屋敷の妻、弟君、義弟、甥。及び、取次人、上屋敷奉行、母の勘定係・・・・・・・】

「いやはや」。一人がつぶやくと、
「たまらん」。別の一人がため息をついた。
「ヤックス、分かった、分かった」
 会議室の空気が一瞬崩れかけた。
 スペックスは怒気を込めて一喝した。
「いえ、しかとご覧頂きましょう。これが主要経費の詳細でございますから!」
 その剣幕に押され、再び重役らは口を閉ざした。そして、オランダ語でびっしりと書かれた目録に所々混じる、「鳳凰」「薔薇色」といった四角い奇妙な文字に目を近づけ、眼鏡を付け直し、眺めはするものの、訳も分からぬまま頭を振り振り頁を繰るのだった。

「こうして我々は、際限の無い彼らの欲望に応えたのです。商館の倉庫が空っぽになるまででございますっ!」
「ヤックス、わかったぞ。よぉくわかった!」
「私が商館長をしておりました時代には、商館の必要経費の実に六割が!六割でございますよ!六割が、江戸参府経費と贈答品費用なのです。これをくれ、あれをくれと。どこへ行くにも、何をするにも!」
「・・・」
「我々に先んずること五十年。イエズス会は!」

 イエズス会ジュスイットの名に会議室は一瞬にして静まった。イエズス会は紅毛人にとって冷徹な武闘派集団でしかなかった。スペックスは十七人をぐるりと見回し、言い放った。

「イエズス会は、この日本の悪習に従ったのです。幕府の心をつかんできたのです。新参者はそれ以上の品々を献上しない訳にはいかないではありませんか! それでこそ、商運は我々に傾いて参ったのでございます! 社の問題とする1619年、20年という年は、殊にイギリス商館を一歩引き離すためにも選択の余地はございませんでした!」

 この高すぎる関税・・と同時に、スペックスは1612年―蘭日貿易の実質開始年―から離日に至る9年間に日本から吐き出させた・・・・・・金銀の量を示した。

「金、重さにして20.172ポンド(約9トン)!」
「銀、重さにして595.248ポンド(約270トン)!」
 重役らは渋い表情のまま頷いた。スペックスはベンヤミンに命じた。
「ベンヤミン、例えば金20.172ポンドの利ザヤを示してくれ」
「はっ」
 ベンヤミンは練習通りに口上した。
「慶長小判は品質が高く、日本からバタヴィアに運びますと、交換比率の差額から、一両につき6グルデン以上の儲けが生じます。一両は約0.04ポンド。20.172ポンドとは50万両以上に当たりまして、300万グルデンもの天文学的利ザヤがわが社に入り込んだ計算になります」

 300万グルデン(約300億円)は金貨の利ザヤである。それに加え舶来品が原価の5倍、10倍、時に100倍もの値段で売れたことを考えれば、当時、これほどうまみのある商売も無かった。VOCの海外貿易に於いて、対日貿易は黒字額の常にトップであった。その為オランダは、平戸商館、のちに出島商館を死守する必要があった。幕府がいかなる無理難題を言おうとも。
 無理難題は贈答品だけではない。
 ある時、閣老の一人が言った。「異人さん、歌を歌ってみよ」。商館長は大広間の中央で故国の歌を歌わざるを得なかった。閣老達はゲラゲラ笑った。別の閣老が言った。「踊りを踊ってみよ」。商館長はぎこちなく両手を腰に当て、片足ずつ飛び跳ね、踊ったこともない踊りを踊った。今度は閣老達は手を叩いて笑った。「はっはっ!猿回しの猿の如しじゃ!」
 体が震える程の屈辱。それを彼は耐え抜いた。ゆえのオランダの繁栄なのだ。現場の血のにじむ様な苦労。目の前の取り澄ました重役らはそれを知る由もない。
 さて、スペックスが示したのは帳簿上の数字である。密貿易に関しては伏せた。 

「ご存じのように、日本国にはろくな商品がございません。戦乱が長く続きましたゆえ。輸出品たりうるものが何一つ。ただ、貴金属あるのみでございます。彼らは舶来品を買うのに金、銀、銅を手放すことしか出来ないのでございます。いずれ、その資源も枯渇することでございましょう。以前はポルトガル、中継地のマカオが日本の金、銀、銅で潤いました様に、今現在、中国を別にしますれば、わがオランダのみが日本の財宝を手にしつつあります。日本を失って以後のマカオの凋落ちょうらくぶりをご存じでございましょうか? 昨日の豪商が物乞いをしております」
「聞いておる」
「別の方向からもお考え下さい。乳母が幼児に飴を与え続ければ、飴なしでは生きていけなくなります。珍しき舶来品はその飴。幼児は、乳母を慕う様に我が国を慕い続ける事でしょう」
「ふむ。うまいことを言うわい。で、貴金属はいつ枯渇するのだ?」。議長が聞いた。
 スペックスは一同を見回し、おもむろに言った。
「金は早晩尽きましょう。・・銀山はまだ眠っております。今のうちに銀を掘り尽すのです。幼児が大人になる前に」

 スペックスの弁舌は重役らに強い印象を残した。
 こうして、全てが成功裡に終わった。――かに思えた。

 週末、ヤックスは意気揚々と土産を携え、ベンヤミンと共にバウス家を訪れた。

 土産とはバタヴィア城の油彩画である。こんな事もあろうかと、バタヴィアを発つ前に、画家に描かせたものだった。総督クーンもそろそろ役目を終え、今度は自分がバタヴィア城主になる。バタヴィア城主とは東インド総督であり、東インド総督とはいわば東洋の王。本社への日参を終えればバタヴィアに戻り、評議会に議決され、総督クーンと握手をかわし、私が晴れて第七代総督となるであろう。
 バウス家は貴族らしい一等地に屋敷を構えてはいたが、馬車小屋に馬車はなく、庭に庭師はいず、玄関で出迎える執事もいなかった。
「お待ちしておりました」
 玄関にはバウス夫妻が出迎えた。案内された応接間は質素であったが、バウス夫人が念入りに磨き上げたと見え、窓のカーテンも、テーブルクロスも、椅子のクッションも全てが真新しかった。
 そこに姉弟が現れた。マリアは長い髪をコイフで留め、光沢ある絹のドレスを身にまとっていた。
 挨拶を交わし、座が和んだのち、バウス家の人々に油絵を披露した。五人は顔を寄せあって絵をのぞきこんだ。

「これが東洋一の城、バタヴィア城です。バタヴィアの街は東洋の女王と称されます。東洋のオランダです」
 母が思案顔をした。
「でも、オランダとはまるで気候が違いますでしょ」
「ええ、それはもう。常夏です。けれど、城は海に面し、潮風が実に心地いい。バタヴィア城の夕暮れを皆様にご覧頂きたいものです。夕陽に染まる城の美しさは譬えようがございません」

 バタヴィアの灼熱と湿気の耐え難さは伏せた。夕方、城を囲む堀は濁って耐えがたい臭気を放つことも。毎年、大勢が熱病と風土病と酒の飲み過ぎで死ぬ。商務員の平均余命が三年であることも伏せた。

 夫人と年老いた女中が台所で騒がしい音を立てていたかと思うと、食堂に席を移し、それから晩餐となった。
 夫人の手料理は久々の故郷の味だった。デザートには糖蜜のかかったポッフェルチェが出された。
 バウス家の酒に酔ったのだろうか。零落したとは言え人々のふるまいに気品は漂い、尚の事バウス家の零落ぶりが心に沁みるのだった。
「オランダに比べましたら辺境と思われましょうが、バタヴィアの社交界もなかなか豪勢なものですよ。特に西洋の女性は社交界の華です。もしあなたがいらっしゃることなどありましたら」
 マリアを見て、
「身分ある方々があなたのような美しい方を毎夜毎夜パーティーに招きたがる」と言った。
「いかがですか。一度、遊びにいらっしゃいませんか」
 マリアは驚いた顔をした。
「バタヴィア・・」
「往きの船でバタヴィアにいらっしゃり、同じ船でオランダにお帰りになればよろしい」
 マリアは妹と顔を見合わせ、それから父母と顔を見合わせた。そこに温かい空気が流れていた。
 私は夫妻に、「晩餐のお礼をお子様達に差し上げても宜しいでしょうか」。そう言って、三つの包みを出した。夫妻は固辞したが、最後には受け取ってくれた。マリアへは真珠の首飾りを、妹へはトルコ石のペンダントを、弟へは象牙の柄の短剣を贈った。

 秋期船団の出航が近づいた。スペックスは内々にバウス氏に2.000グルデンを贈与した。
 その後とんとん拍子に事は進み、マリアとの婚約が叶った。マリアにはまばゆい程のルビーとサファイヤを贈った。妹には上級商務員との見合いを手配し、弟には就職を約束した。更に、婚約の記念に著名な画家ファン・ラヴィステイン van Ravesteynにマリアの肖像画を依頼した。マリアは沢山の贈り物の中から、日本のかんざしを髪に刺して画家の前にすわった。註釈(6)
 マリアはサラの存在も受け入れ、晴れてアムステルダムの教会で結婚式を挙げたのだった。
 秋期船団でのバタヴィアへの帰還が二人の新婚旅行となった。

 1628年10月28日。
 アムステルダムの港に十八隻の帆船が集結した。会社の同僚たちやマリアの家族、知人らも見送りに来た。マリアの父は誰彼となく、「婿殿は総船団長でしてねぇ」と吹聴して歩いた。
 この日、目を引いたのは最新式の新造船『バタヴィア号』だった。海に浮かぶ城といった風情でその威容を堂々と披露していた。大小十八隻の船団は、途中モザンビークに立ち寄り、バタヴィアに到着する。そこからモルッカ、シャム、台湾、平戸へと放射状に分散する。
 総船団長であるヤックスは『ホランディア号』に乗り込む事になっていたが、マリアはバタヴィア号に心奪われる様子だった。可愛い新妻の為に、さて、バタヴィア号に移ろうかと思ったその時だった。ヤックスに「待った」がかかった。会社から再度招集されたのだった。バタヴィア号の他、既に出航準備の整った七隻が先立って出帆することとなり、マリアを失望させた。

 ヤックスに待ったをかけたのは、清教徒ロベルト・ハンブルだった。
 彼がこう言ってきたのだ。
「もう一点、どうしてもせない点がスペックス殿にあります」
 ハンブルはアムステルダム支社の代表、すなわち重役の中でも最高位である。その呼び出しを断ることは出来なかった。

 そしてこの再度の弁明は、ヤックス・スペックスに日本での最大の苦悩を思い出させずにはおかなかった。
 『平山 常陳 じょうちん 事件』である。

 

その10 へ つづく