『ドン・ジョアン有馬晴信の最期』
 ーイエズス会士マテウス・コウロスの1612年度年報よりー

有馬晴信没後400年記念祭で朗読された『有馬晴信の最期』を次に掲載する。

 ドン・ジョアン有馬晴信はご復活の祝日の夜明け、夫人ジュスタと共に追放の地へ向かった。武士と従者合わせて家来三十五名のみが同行を許された。晴信を引き取る領主石見守の命令で、一人の武士が護衛の兵を伴って晴信を護送していった。
 晴信は途上たびたび家臣と語りながら、「この苦しみや今後味わう苦労は、神の御心に逆らって犯した数多くの罪に相応しい神の罰であることがよくわかる。今はそれに対して感謝を捧げているし、今後も同様であろう。神の御子が罪びとを救うために十字架上で死に給うたその日に捕えられたこと、このような聖なる祝日の朝、追放の地に向って出発することは、神の特別のお恵みであると思う」と言った。またさらに「ご受難の時、神の御子はその弟子に見捨てられ給うたのであるから、天下殿がこれほど僅かの人数だけを残して私から家来を奪うことを命じたのは、私の死が近いことの徴であると思う」とも言った。

 追放の地と定められた土地は富士山の麓、甲斐の国の谷村(やむら)というところで、駿河から北へ三日の旅で達する。そこに到着するとその地の領主・鳥居土佐守が有馬晴信とその供の者全員の身柄を預かり、その地で最上のいくつかの屋敷に彼らを宿泊させ、日夜交代の護衛兵を付けた。有馬殿はそこにおいて、厳粛に自身の魂を救済する努力を始めた。キリストのご受難の話を何度も読ませては注意深く聴き、それについて黙想するために時間を費やした。この時いつも、妻ジュスタは率先してこれを共に行った。彼女の勇気と徳を信じていた有馬殿は、一生の間に犯した最も大きい罪のうちの思い出したものを紙に書かせて読ませ、それを聞きながら心の底から痛悔を行い神に赦しを求めた。家来には、信仰について如何に戦いを挑まれようとも堅くキリシタンの教えを守ることを勧め、また長子ミゲール直純のために祈るように求め、彼自身も「ミゲールに信仰を維持させ給え」としばしば神に祈るのであった。
 その一方で、自分に義理のある人々や大きな恩義を施した人々によってこのような不幸に陥れられたことを悲しみ、自分に科せられたと思われるいくつかの<無実の罪>について弁明の書状を出した。しかしこれが反対派の人々の耳に入り、彼らはかえって有馬殿を斬首刑に処するよう家康に訴えた。

 この結果、刑の執行を命ぜられた谷村の鳥居土佐守と都の所司代板倉勝重の長男が一五〇名以上の武装した兵を率いて六月五日(現在の暦で五月六日)未明に屋敷を取り囲み、「切腹」の宣告を伝えた。
 有馬殿は追放の最初から覚悟していたので、何ら動揺を示さず極めて冷静にこの知らせを受け、「勇気も刃も私には欠けていないから、我が身を殺す切腹は容易である。しかし我が信ずるキリスト教が禁じているので、如何なることがあってもそれを為すことはできない。だから斬首されることを頼む。家康殿の命令の遂行はそれで充分であろう」と使者に答えた。また家臣全員を呼んで、彼の死の前にも後にも、この宣告の執行に来た人々に対して決して無礼な行為があってはならぬと命じ、大刀と小刀を彼らに引き渡すよう命じた。主君が死ぬと家来の何名かが切腹する日本古来の習慣から、自分の家来もこの風習に従うことを憂えて、キリシタンにとって自殺は神の御心にもっとも背くものであることを伝えた。
 その後、キリストのご受難をおもむろに読ませ黙想し、それを妻ジュスタと共に語り合った。それからキリスト像の前で、一生の間に犯した思い出せる重罪を大声で述べ、その罪の許しを乞い、次に家来や下級の雑役の者に至るまで一人ひとりの名を呼んで、全員に赦しを乞うたのである。続いて別れの盃を持ってこさせ、死が目前に迫っている者の様ではなく落ち着いて、妻ジュスタから始め全員に盃を与えた。周囲の人々で泣かぬ者はいなかった。その場にいた刑の執行人も眼に涙をためていた。 
 それが終わると有馬殿は二枚の畳を重ねて置くように命じ、その畳の上にあがり、最期を迎える場所に身を置いた。彼自身の家来カキザエモンの手によって名刀で首を斬られることを選んだ。脇にいたジュスタは心の悲しみを顔や態度に示さず、夫に罪の痛悔やこの場に必要な神への祈りを勧めていた。有馬殿は両手を挙げて十字架像の前に跪き、静かに暫らく祈ったのち、頚を下げて執行人にその責を果たすようにと合図した。彼は一撃で主君の首を斬った。その場にいた人々はかかる場に臨んで示した有馬殿の勇気と力に感嘆した。彼らが最も感嘆したのは、首が落ちるとジュスタが直ちにそれを手に取って、愛情深く顔の前に持ってきて暫らく向かい合っていたことである。それから奥の室に引き下がり、声も立てず泣き叫びもせずすすり泣きで涙を流し、神の御心に叶うようにその悲しみや追放中のすべての苦しみを神に捧げ、それから頭髪を切った。共にいた僅かの女たちもこれに倣い、その他の家来も日本の風習に従って同様に髪を切った。

 これがかつて、キリシタン大名として人々に知られ、私たちイエズス会士を迫害の続く間中その領内に保護し、私たちに多大の恩恵を施してくれたドン・ジョアン有馬殿の悲しい最期である。
 時に五十一歳、追放されてから四十五日であった。 

              『九州キリシタン史研究』ー有馬晴信の悲劇と栄光ーディエゴ・パチェコ著 佐久間正訳
 (キリシタン文化研究シリーズ16 1977年)
※式典用に、難解な言葉は平易にするなど改変した部分がある。

⇨有馬晴信没後400年記念祭