有馬晴信公没後400年記念祭
キリシタン大名有馬晴信が、領地肥前有馬から遠く離れた甲斐の国に流され、初鹿野(はじかの)で処刑されてから400年が経った。その400年目の命日にあたる2012年5月6日、山梨県甲州市大和町初鹿野で記念祭が開かれた。
2012年5月6日、初鹿野には、有馬家当主をはじめ、ジュスタ夫人の子孫、天正少年使節団の子孫、また地域の皆様、研究者等々約100名程が集った。実行委員会メンバーは高輪カトリック教会有志達。記念祭に御尽力下さったのは、地域の皆様と甲州市教育委員会だった。
私は実行委員長を務めたが、開催に至った経緯を、『有馬晴信公没後400年記念祭・記念誌』の「序」から転載したい。
ー序ー
不思議な緑(えにし)が一つ一つ重なり合い、晴信公記念祭を開催することになりました。
思えば、2008年が出発点でした。
長崎で〝列福式〟というカトリックの大きな式典がありました。私は有馬晴信の領地であった有馬地方にも足を伸ばし、日野江城跡、原城跡、等々の切支丹史跡をめぐりました。キリシタン大名・晴信公のもとで領民の多くがキリシタンとなり、キリシタン文化が花開いた土地です。陽光はまぶしく、島原の海は豊穣そのものでした。(→原城を歩く)
翌年、甲斐大和の隣町に地縁があり、「晴信公の処刑地は案外近そうだけど…」 と一枚の資料を手に、道に迷いながら初鹿野(はじかの)を訪ねました。畑の中にポツンと謫居(たっきょ)跡の記念碑が立っていました。道の脇に石の祠(ほこら)があります。畑仕事の女性に「この祠は晴信公と何か関係がありますか?」と伺うと、「有賀(あるが)さんに聞いてごらんなさい」と有賀家を教えて下さったのです。お宅を訪ねますと、有賀町子さんが玄関に現れました。用件を申し上げると、「どうぞお上がり下さい」。町子さんは見ず知らずの私をお宅に招き入れて下さいました。そして晴信公の紙位牌を見せて下さり、自分達は晴信公終焉の地を守り続けている一族だということ(四百年間!?)、江戸時代の昔から毎年御命日には丸岡藩から有馬家の使者が訪れたということ(禁教時代だから隠密裏に!?)、等々、歴史の表にはあらわれないお話を次々に語って下さったのです。私はただただ驚くばかり。切支丹史調査で各地を歩く度にその土地に眠る不思議な話に遭遇するものの、この日の有賀さんのお話は間違いなくトップクラス。その日一日、私の興奮は冷めやらないのでした。
二度目に初鹿野を訪れたのは初冬でした。雪が絶え間なく谷底に降り注いでいました。
陽光溢れる広大な有馬の地から、はるばるとこの地へ流された晴信公の哀しさが胸に迫りました。この時、きっと私の心に一粒の種が蒔かれたのでしょう。
2012年、晴信公没後400年目の年がやってきました。そして、特に記念祭などの企画がないことを知った時、「やるっきゃないか」と覚悟を決めたのです。それが2月のことでした。高輪カトリック教会に〝殉教者に学ぶ会〟があります。私は数年前から勉強会に参加していました。そのメンバーに協力を乞い、「実行委員会」を立ち上げることができました。
まず、有馬家現当主のご住所を探し当て 、果たして来て下さるのか不安なまま案内状をお送りしますと、現当主、有馬匡澄(まさずみ)さんから「記念祭に同わせていただきます」とのご返事が あったのです。「記念祭はきっと成功する!」、そう確信したのはこの時でした。
それから3月、4月。私達記念祭実行委員会は晴信公の400年目の御命日、5月6日をめざしてただひたすら走りに走ったのでした。
第一部 ―式典―
< 式 典 >
開会 開会の言葉
開祭の歌 ♪「今日こそ 神が造られた日」
挨拶・祈り 司式・山内堅治神父
灌水・献香 〃 〃
焼香 関係者
晴信公の事績紹介
晴信公最期の場面朗読「コウロス文書」より
供花、供物 関係者
贈答式 (贈呈)有馬家→有賀家
菊亭家→ 〃
(返礼)有馬家←有賀家
菊亭家← 〃
植樹 有馬匡澄氏
植花 菊亭家(福田直子氏、志賀純子氏)
参加者紹介
閉祭の歌 ♪「ガリラヤの風かおる丘で」
第二部 ー交流会ー
ゲストのスピーチ<パートone>
・「有馬家の宗教変遷」 有馬匡澄氏
・「菊亭ジュスタと私」 志賀賢子氏
・「殉教者中浦ジュリアンの列福と、ローマ法王に謁見して」(中浦ジュリアン子孫)小佐々学氏
・「晴信公の正使であった千々石ミゲル」
(千々石ミゲル子孫)宮崎栄一氏
ゲストのスピーチ<パートtwo>
・「私の晴信像」 示車右甫氏
・「岡本大八について」 宗任雅子氏
・「有賀家の言い伝え」 有賀町子氏
・「終焉地特定の経緯」 清水紘一氏
・「島原半島を歩いて」 国見登氏
・「有馬晴信の最期とジュスタ」五野井隆史氏
山内堅治神父による結び「キリシタンの回心」
閉会の言葉 閉会の歌
この日、記念祭と交流会は無事終了した。(詳細は『有馬晴信公没後四百年記念祭・記念誌』(付DVD)に)
開始時の、強風&雷雨から青空への急変といったドラマは、まるで〝主催者・神さま〟を告げるかの様だった。
また、式典が終わり、大勢が交流会会場へと流れる直前、誰かが「集合写真を撮ろう!」と叫んだ為、急遽、椅子を並べて撮ったのだが、完成写真を見ると、前列、晴信公夫妻の子孫を中心に、有賀ご夫妻と司祭、そして(終焉地を特定された)清水紘一先生。列の両脇をかためるのが天正少年使節団の千々石ミゲルと中浦ジュリアンの子孫。この配置の妙にも驚いた。
そんな様子を晴信公夫妻も天上から眺めておられたことだろう。
改めて、地元の方々や甲州市教育委員会の御尽力を明記しておきたい。また多数の記念祭関連記事を書いて下さった新聞各紙にも感謝であるし、DVDを残せたのは、SIGNIS(カトリックメディア協議会)のおかげである。
散会時に参加者の口から出たセリフが ―今度は500年祭ですね ! ― 。そんな笑いのうちに終了したイベントだった。
★ ★ ★
さて、記念祭がきっかけで「吉祥寺キリシタン研究会」が作られ、今に至っている。
ここでキリシタン史の現状を言えば、年ごとに昔を知る人々は減り、同時に、隠された遺物や伝承も知られないまま消滅しつつある。
郷土史の視点からも残念なことで、各地で保存に努める方々がおられるが、横のつながりも重要だと感じる。新たな研究者も増えてほしい。
全国的な集まりとしては、毎年12月に上智大学で「キリシタン文化研究会」のシンポジウムが開かれているし、「全国かくれキリシタン研究会」でも年に一度、全国大会が開かれ(開催地は年ごとに変わる)、シンポジウムや巡検が行われている。(※コロナ禍のため、今年、前者はオンラインに変更。後者は中止となった)
いずれ、各地で活動するキリシタン関連のグループを当HPで紹介していきたい。
新聞記事から (「山梨日日新聞」「長崎新聞」)