蝦夷キリシタン

106名の殉教者をしのぶ千軒岳巡礼
蝦夷にキリシタンが渡った経緯。そして現在の千軒岳殉教記念ミサのこと
 
キリシタン史

北海道福島町・千軒岳

 北の大地にようやく初夏が訪れる頃、函館地区の教会有志は「千軒岳(せんげんだけ)殉教記念ミサ」の準備に取り掛かる。
 案内状を作成し参加者を募り、事前に巡礼ルートを踏破してみる。巡礼地としてはおそらく日本一の難所。危険箇所の確認など入念なチェックは欠かせない。
 巡礼は7月の最終日曜日だ。この日、早朝の宮前町教会にリュックを背にした巡礼者が続々と集合してくる。道内ばかりでなく、遠方からの巡礼者もいる。去年は海外からの参加もあった。 巡礼団は司祭の祝福を受けたあと、車に分乗して千軒岳へと向かう。

 殉教記念ミサが初めて行われたのは昭和34年のこと。北海道への再布教100年目を記念して千軒岳で盛大に行われたという。行事の継続を希望する声が多く、志は毎年引き継がれて、今年、記念すべき50周年を迎える。又、蝦夷キリシタンの殉教から360年という節目の年でもある。
江戸時代初頭、東北にもキリシタン迫害が及んでくると多くの信者が蝦夷地に逃れた。金掘り人としてだった。金が松前藩の重要な財源だった事から鉱夫の信仰は黙認されていた。信仰の安住地とは言え、その環境も労働も過酷を極めた。金山で命を落とす鉱夫が少なくなかったと言うが、千軒岳に登ってみて初めてそれが実感できる。

千軒岳。高低差の激しい岩山が続く。時には沢登りも

高低差のある岩山が続く。時には沢も渡る。

蝦夷キリシタンと二人の宣教師
 初めて蝦夷に渡った宣教師はイタリア人のイエズス会士、ジェロニモ・デ・アンジェリス神父(1568~1623)である。1618年のことだ。マカオの同僚あての書簡によると、渡航理由は、蝦夷人(アイヌ人)への布教が可能かどうかの調査、松前の信者達が告解を熱望している事、蝦夷地の地理・民族に関する調査、の3つだった。神父は同宿(どうじゅく=教話者)シモン遠甫(えんぽ)ら3人を伴い、商人の姿で船に乗り蝦夷に上陸した。松前藩主 (七代公広)は神父の上陸を歓迎するかの様に町の信者達にこう言う。
「パードレが松前に見える事はダイジモナイ。天下(幕府)はパードレを日本から追放したが、松前は日本ではないから」
 神父はキリシタンの贔屓筋の高位の人物とも面会している。数年前、堺出身のキリシタン医師が藩医として赴任し信頼を得ていた事も幸いしたのだろう。(現在、松前城そばにある「松前家藩公歴代墓所」には十字やローマ字記号の刻まれた墓石が見つかるなどキリシタン信仰との関連が指摘されている)
 神父は10日間松前に留まり、15人の告解を聴き、数名に洗礼を授けた。又、多くのアイヌ人とも会った。神父は調査結果を書簡にこう記した。「アイヌ地域には僧侶がいないので布教は可能である」「蝦夷は島ではなく、(アジア)大陸の一部と思われる」

松前家藩公歴代墓所

松前家藩公歴代墓所。藩主は金堀人となったキリシタン達を保護した。

それから2年後の1620年、ポルトガル人のイエズス会士、ディエゴ・カルワリオ神父(1578~1624)が渡航した。蝦夷はゴールドラッシュに沸いていた。カルワリオ神父から管区長宛の書簡には「昨年は5万人が、本年も3万人以上の金掘り人が蝦夷に渡りました」とある。神父は鉱夫に変装し、蝦夷に潜人した。松前にも徐々にキリスト教禁制の暗雲が漂い始めていた。神父は松前城下で密かに初ミサを、千軒岳でも初ミサを行った。場所は現在の広川原(ひろがわら)と推定される。その日は8月15日、聖母被昇天の祝日だった。このミサはカルワリオ神父にとって忘れられないものとなった。
「金山(かなやま)から遠からぬ所に、新しくつくられた藁屋ばかりの一部落に着いてから一信者の茅屋で祭服に着替えました。その茅屋の壁は樹皮でできていて、屋根も樹皮で葺いてありましたが、非常に清潔にして幕で飾ってあり、祭壇がうまい具合に造ってありました。そこで小生は聖母被昇天の祭典を挙げました」
 広川原に集ったキリシタンの出身地も出自も様々だったろう。武士だった人、商人や農民だった人、単身者も家族連れもいただろう。彼等は手足の泥を落とし、身支度を整えてミサに参列したに違いない。長い間この日が来るのを待ちわびていた人々であった。カルワリオ神父はその時の感慨をこう記している。
「その時、小生は、日本の諸地方で見て来た豪華な且つ立派に装飾された諸聖堂で、この祭日に多数の信者が集まり、信者達の色々な遊戯や余興をもって催された祭典を想い出し、落涙を禁じ得ませんでした。それは追憶の故でありましょうか。それとも発見されたばかりの世界の最果ての地において、小生こそがこの聖日を祝った最初の者であるという慰悦の故 でありましょうか。小生にもわからないのでございました」
 その翌年、アンジェリス神父が再渡航した。この時、神父はイエズス会へ公式報告書を書いている。上長達は蝦夷地についての より正確な情報を神父に求めていた。イエズス会は、従来の南方ルートでの日本上陸が英蘭船の妨害や幕府の九州沿岸警備の厳しさから困難を極めていった為、北方ルートで日本へ南下する可能性を探っていた。

アンジェリス神父の蝦夷地図

アンジェリス神父の蝦夷地図(伝聞による想像図の為、蝦夷が本州より大きく描かれている)

アンジェリス神父はこの時の聞き取り調査により、「蝦夷は島である」と訂正し、北海道の地図(想像図)を自ら書いた。又、アイヌ民族をつぶさに調査し、生活、風習等を14項目にまとめ上げた。その中にはアイヌ語(1つ=シネップ、2つ=ツップ、父=ファチャップ、

母=ファイボウ、など)50語の記載もあり、「将来蝦夷へ渡るパードレにはこれを辞書の始めとすることが出来ます」と書いている。報告書は直ちにローマへ送られ、イタリア語版とフランス語版が発刊された。
 その後鎖国によって日本に関する情報が途絶えた為にこの報告書は200年以上に亘ってヨーロッパでの蝦夷の地理学、人類学の主要資料となった。(これらの書簡、報告書、地図は 『北方探検記』(チースリク 編)に収録))

二人の宣教師のその後
 アンジェリス神父は東北の布教長として東奔西走した後江戸へ赴き、伊豆、甲斐地方にも布教の足を伸ばした。そんな中、原主水(はらもんど)の旧家臣が、主水の隠れ家と信者等の名を奉行所に通報。多数の信者と共にアンジェリス神父とフランシスコ会のガルベス神父が捕えられた。三代将軍家光は就任祝いの為全国から参集していた大名達の目前での処刑を望んだ。処刑地は往来の激しい札の辻(現在の田町駅そば)。

江戸の大殉教

元和・江戸の大殉教。白馬の馬上が原主水、その後ろがアンジェリス神父。

 

広瀬川岸に立つ殉教象

仙台の広瀬川わきに立つ殉教像。中央がカルワリオ神父。

そこに数千人の見物人が集まったという。2人の神父と原主水、そして47人の信徒は市中引き回しの後広場に引き出された。まず47本の十字架に信徒等が縛られ薪に火がつけられた。彼等はイエズス、マリアの名を唱えながら猛火の中で次々に息絶えていった。最後に3人が十字架に練られ火を放たれた。アンジェリス神父は傍らの原主水を励まし続けた。火焔が全身を覆い尽くす中、神父は江戸の町を見て祈りを捧げ、群衆に最後の謝辞を述べると、膝をガクリと折り絶命した。これが1623年に起きた―元和・江戸の大殉教―である。 
カルワリオ神父の最期も壮絶なものだった。1624年、奥羽山脈の麓の下嵐江(おろせ)で捕縛された後仙台に連行され、極寒の広瀬川で8人の信者と共に水責めの刑を受ける。信者達は1人また1人と凍死していった。最後まで残った神父は3度目の氷責めの日に命を落とした。

蝦夷キリシタンの殉教
 カルワリオ神父の書簡から、千軒岳には、元同宿達が鉱夫をしながら信者達の世話もしていたことがわかっている。いわばコンフラリオ(信心組織)がここにもあったに違いない。彼等は宣教師の訪問が途絶えてからも信仰の火を絶やさなかった。ところが、この蝦夷地さえも彼等の安住地ではなくなる日がやってくる 。1637~8年の島原の乱をきっかけにキリシタン根絶が幕府の緊急課題になると1639年年より全国津々浦々で容赦なくキリシタン狩りが行われるようになった。東北各地で大量のキリシタンが殉教したのがこの年である。ペトロ岐部が東北で捕えられ、江戸で殉教したのも同年。
 松前藩はこの年の8月、大沢金山のキリシタン男女50人を斬首。石崎にて6人を。また千軒岳金山で50人を斬首した。(松前藩正史 『福山秘府』より。ただ、正史中「幾利支丹部」紛失の為、その氏名も処刑地も一切分かっていない)。松前城下にもキリシタンは存在したが、藩は町民の処刑を避けて他国者の106人を処刑したのではないかと考えられている。
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千軒岳での記念ミサ

記念ミサの司式はトラピストの司祭

 汗まみれで 山を登り続けること4時間。やっと旧金山番所跡(かなやまばんしょあと)に至る。岩上の銀の十字架が巡礼者を出迎える。そしてミサが捧げられる。蝦夷キリシタンが命がけで拝領した御聖体を、巡礼者は平和 の内に頂く。キリシタンの苦難と栄光に思いを馳せると共に、自分の信仰を振り返らざるを得ない。日本一の難所は恵み多き巡礼地でもある。
 さて、下山後は麓の温泉で一日の泥と汗を洗い流す。巡礼を無事終えた喜びで皆笑顔だ。今朝初めて出会った者回士がはや旧知の友になっている。これも又巡礼のもう1つのお恵みかもしれない。

 


―『聖母の騎士』2009年7月号掲載〝蝦夷キリシタンの殉教から370年〟
に加筆ー

※なお、今年(2020年)の記念ミサはコロナの影響で中止が決定された。

 

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