『福者デ・アンジェリス神父の冒険』①b

アンジェリス神父の辿った航路

 アンジェリスとスピノラの2人は苦難の航海を生き抜いて共に日本の土を踏み、それぞれが日本に大きな足跡を残したのちに殉教する。
 スピノラはアンジェリスにとって終生の霊的兄とも言える人物である。
 彼らの航海の詳細が分かるのは、スピノラ殉教後、スピノラ家が自費で(!)列福調査を行い、「カルロ・スピノラ伝」を出版したからだ(※11)そのおかげでスピノラの手記を今でも普通に読むことが出来る。当時の過酷な船旅の様子が垣間見られる第一級の史料である。それを元にした航路図も掲載したので本文と合わせてご覧頂きたい。

 彼らはジェノバから地中海を渡り、バルセロナで下船した後、陸路、リスボンへ到着した。 

1596年4月10日。
 アンジェリス、スピノラ、そして6人の仲間(※12)がリスボンの港に立った。遭難率が極めて高かった時代、巨大なガレオン船も大海に出れば木の葉同然である。大西洋を前にし、彼らは祈りののちにこう声を掛け合ったに違いない。
 「さぁ、行こう! 主の命ずる所まで!」
 外国行き船団はまずアゾレス諸島まで進み、船は二手 ――大西洋を南下する東洋行きの船と、西へ向かうブラジル行きの船―― に分かれる。アンジェリスらの乗った東洋行き船団は追い風に乗り順調に南下した。
 一行の中に、徳高く、「聖人」と呼ばれるジャコモ・デ・ヴィカーリス神父がいた。彼を中心に、イエズス会の会員たちは乗員乗客に要理を教え、聖歌を歌い、告解に耳を傾け、ミサを行った。彼らのいる場所が教会であった。
 5月26日。
 赤道を越える。一行は盛大な祝いをする。
 6月19日。
 あと僅かで喜望峰、という所で暴風が起き、巨大なかじが折れて船体が破損。ここから「死が常に目の前にある」(スピノラ)苦難につぐ苦難の航海となる。天候は一転、無風となり、船は進まず船内の空気は淀み、400名が放血。高熱の為10名が死亡。そこに突然の暴風が起き西へと流される。船はリスボンへUターンを決め北上。食糧は尽き、濃霧が行く手を阻み疫病が蔓延する。会員は病人を看護し、告解を聴き、自らも感染した。乗員乗客500名のほとんどが病に伏せた。
 7月16日。
 ようやくブラジル、サルバドール(バイヤ)港に着く。コレジヨ(学院)のある港である。コレジヨの神父らが病人の看病にあたる。2人の会員が死亡。その1人が「聖人」ジャコモ神父だった。彼は日本宣教を熱望していた。
「彼は私(スピノラ)に秘蹟を乞い、正午過ぎの9つの刻には大変穏やかな天使のような顔をし、(略)その体は難破船のようにぼろぼろになって(死して)真の日本へたどりついたのでした(※13)
 乗員乗客が皆、彼の死に涙した。
 12月12日。
 リスボンへと出航。再び激しい暴風に遭い、海流に流される。何度も座礁の危機に瀕する。

1597年3月24日。
 プエルトリコ島に辿り着く。司教や総督、商人らのいる街だった。リスボン行きの船を待つ間、会員は各地域に分かれ、布教に明け暮れる。アンジェリスとスピノラの2人は常に行動を共にした。島々には要理を知らぬキリスト教徒が多かった。クラーモ、ブカナス、新サラマンカで布教する。スピノラの〝新サラマンカ(Nuova Salamanca)からの手紙〟には、聖バルナバの日(6/11)に、罪の痛悔のため、村人たちが夜通し松明(たいまつ)行列を行った様子や、朝、彼らが教会に告解に来る様子が書かれ、それに続いてこんな記述がある。
「彼(アンジェリス修道士 )には人を退屈させずに教える特別の才能と忍耐力・・・・・・・・・・・・・・・がありました。短期間に信仰の重要な事柄を(村人らに)理解させました。少年少女達や黒人達が教会から出てきて、いろいろな場所で行動を共にし、互いに質問を交わし合い、覚えた事柄を繰返す様を見るのは、まことに主を誉め称えるべきことでした。」(傍点は筆者)(※( 14 )
 2人が村を去る時にはいつも村人たちが涙を流して別れを惜しむのだった。
8月21日。
 会員は幾隻かの船に分乗しリスボンへと出航。アンジェリスとスピノラは武器も備えない最小の船に乗った。(それがのちに災いする)
10月17日
 アゾレス諸島に近づいた頃、イギリスの海賊船がその船を襲撃。2人は捕虜となる。海賊は高額な積み荷を手に入れるや全速力で帰路を急いだ。その為、アンジェリスは後部甲板から海中に転落。船の下を通り抜け(これは、大航海時代にあった最も残酷な処刑の1つである!)、奇跡的に前部甲板の波間から浮かび上がり、一命を取りとめた(( ※15 。海賊船はダートマス(現デヴォン郡)に帰港。イギリス人にとって敵国のスペイン人捕虜は処刑される運命だった。アンジェリスはイタリア語を忘れていて(!)、スペイン人と間違われ、あわや殺害という場面もあった。その後2人は釈放され、ドイツ人商人の船でイギリスを出航し、イベリア半島のガリシアに入港する。
1598年1月。
 リスボンに帰る。 
 2年かけて振り出しに戻った。しかし、リスボンに滞在中、イエズス会本部は2人の不屈の精神を称え、アンジェリスを司祭に叙階し、スピノラの終生誓願を認めた(10/28)。
1599年3月末。
 リスボンでペストが大流行する。貿易船は出航しなければ日々経費がかさむばかり。船主は出航を急ぎ同行司祭を必死に探すも、なり手はいない(危険な航海には精神的支えとして司祭は必携だった)。その募集に手を挙げたのがアンジェリスとスピノラらイエズス会士だった。彼らはリスボンからの再出航を果たす。ところが船内でペストのクラスターが発生。約85名が死亡する。
 4月~6月。会員の内、4名が死亡。6名が重態となる。スピノラも熱病がひどくなり、終油の秘跡を受ける。その後奇跡的に回復する。
 夏頃、ゴアに到着。
1600年4月28日、出航。7/2マラッカに到着し、7/10出航。
 11月上旬。マカオ ――東洋に於けるイエズス会の拠点―― にようやく到着する。

・国際都市マカオでの意外な出会い
 マカオには巡察師ヴァリニャーノが設立したコレジヨ「聖パウロ学院」があった。西洋と東洋から多くの会員が集まる国際的な教育機関となっていた。西洋人はここで布教地の言語や文化を学んだ後、中国と日本とに分かれて旅立った。東洋人は主に司祭叙階の勉強をした。
 アンジェリスら2人はここで日本語を学んだ。そして半年が過ぎた頃、意外な人物との邂逅が待っていた。
 少年使節だった2人――伊東マンショと中浦ジュリアン――がマカオにやって来たのだった。彼らは留学試験にパスし、司祭叙階の勉強の為にマカオに到着したのだった。(※16)
 話は10年前にさかのぼる。
 4少年がローマから帰国すると、日本は様変わりしていた。信長の死後、実権を握った秀吉は九州平定後すぐに「伴天連追放令」(1587)を発布。宣教師を国外追放し、高山右近を改易。教会領長崎を没収した。更に96年、「サン・フェリペ号事件」をきっかけに京都の神父とキリシタンを捕え、長崎の西坂で26名を処刑した(日本26聖人の殉教)。そして貿易関係者以外の宣教師をマカオに追放した。その10年間で破壊された教会及び関連施設は200にのぼった。1598年、秀吉が死去。1600年、関ヶ原に勝利した徳川家康が実権を握る。同年、オランダ船が豊後に漂着。家康の前に日蘭貿易の道が開かれる。そんな中、1601年、4少年の1人、千々石ミゲルがイエズス会を退会するという出来事が起(※17)
 家康は当初、貿易仲介者としてイエズス会を必要とした。イエズス会の経済が逼迫した時に支援の手を差し伸べたのも彼だった。信長の時代の再来となるのではないか。イエズス会はそう考えて(きた)るべき時に備えた。1600年前後が宣教師が最も多く来日した時期なのである。

 再び話をマカオに戻そう。
 アンジェリスとスピノラは、マンショとジュリアンとの出会いをどんなに喜んだことだろう。2人から日本語や日本文化を学んだに違いない。逆に2人はアンジェリスらからラテン語を学んだかもしれない。日本の学生にとってラテン語は仇敵のようなものだった。
 スピノラはマカオで、日本のイエズス会の会計プロクラトーレという職務を負わされた(※18)。また、少し前に火災で損傷した聖パウロ天主堂(コレジヨが併設)の設計も任された。
 新天主堂の建設途中でスピノラらは日本へと出発した為、完成後の聖パウロ天主堂を彼らは見ていない。第一次完成は翌1603年のクリスマスイブである。聖パウロ天主堂はその壮麗さから〝東洋一美しい教会〟と称えられたが、1835年、大火災に見舞われ、かろうじて正面前壁ファサードだけが残った。
 現在、世界遺産のこの地区の中でも最もマカオを代表する建物となっている。威厳とはかなさの同居する不思議なモニュメントである。スピノラ神父の天才の一端を感じ取ることができる。

聖パウロ天主堂

・日本の土を踏む!
 1602年7月。アンジェリスとスピノラは、7人の仲間(※19)と共に長崎に到着した。ジェノバ出航から7年もの歳月が流れた。アンジェリス34歳の年である。
 さっそく彼らはイエズス会日本本部のある「岬の教会」(※20)へと向かったであろう。
 この年、全国の信徒数は30万、聖堂数は190。イエズス会の関連施設は21。秀吉の破壊からこれだけ復興していた。イエズス会士は126名、同宿などの補佐役は約800名にのぼった。
 当時、長崎の街には4つの聖堂があったが、その中心となったのが「岬の教会」である。信徒の急速な増加に対応するため、アンジェリスらが長崎に上陸する前年、4階建ての非常に大きな聖堂に生まれ変わっていた。そして、その新聖堂で日本人初の司祭(木村セバスチャン、にあばらルイス)の叙階式が行われた。
 アンジェリスが来日した頃、新聖堂に隣接する「本部修道院」には、各地の迫害から逃れてきた避難者で大所帯(会員は54名。同宿などの補佐役が約300名。その他セミナリヨの生徒ら)となっていた。司教セルケイラと巡察師ヴァリニャーノ、副管区長フランシスコ・パシオもこの本部に居住した。
 長崎に到着した新参の9名は――殊に〝生還者サバイバー〟の2人は――仲間から熱く迎えられたことだろう。彼らは高名な巡察師とそこで初対面が叶ったかもしれない。

岬の教会(ディエゴ・パチェコ『九州キリシタン史研究』より)

 過ぎる日、巡察師は、
「日本におけるこの布教事業は東洋のあらゆる地方において、もっとも重要であり、もっとも有益である」と書き、10の理由を挙げて熱弁し、ゆえに、「イエズス会は、他の企画をさし措いても、あたうる限り(日本布教に)努力せねばならぬ」と書いた。
 更に、〝日本へ派遣すべき人物とその素質〟として「思慮深く、威厳があり、しかも親しみを有し、信者には愛情深く、忍耐強く、日本の文化、風習を積極的に習得し、強靭な肉体を有すること」を挙げた。そうでなければ知的で誇り高い日本人には受け入れられないと考えた(※21))――ヴァリニャーノさん、日本人を持ち上げすぎですよ!とは思うけれど、それはともかく――、日本に送る会員の条件として最上級の人材を要請したのである。
 ヴァリニャーノもイタリア出身である。当時のイタリアはまだ一つの国ではなく、イタリア人はイエズス会内でのスペイン人VSポルトガル人の、国を背景とした反目とも無縁だった。何よりもその明朗さが日本人に好かれた。
 巡察師の目の前に現れた〝生還者〟2人は、そのイタリア人。1人はシチリアの太陽のように陽気で、しかもイエズス会が誇るコレジヨで学んだ神父。もう1人は、かのスピノラ家の、知性と教養の塊のような神父である。
 巡察師は、息子ほど年の違うこの2人に目を細め、〝完璧!〟とうなずいたであろう。
 巡察師が離日するのはそのわずか半年後のことだ。少ない日々の中で新参者9名は彼から薫陶を受けたに違いない。また日本の教会の未来を熱心に語り合ったりもしただろう。実際、スピノラは「聖母の組」設立を巡察師に願い、承諾されたりもしている(※22)
 この若き神父たちの来日は、巡察師が日本で最後に出会えた〝希望〟だったに違いない。彼は第3次日本巡察を終えてマカオへ帰り、2度と再び日本に戻ることはなかった。
 その後、アンジェリスとスピノラは、有馬のコレジヨに送られた。そこで1年間日本語を学んだあと、アンジェリスは大坂、そして伏見へ、スピノラは有家(ありえ)へと派遣され、以後、別々の道を歩くことになる。
 次回はアンジェリス神父の日本での活動を追っていく。

次号につづく

『福音と社会』Vol.322 (2022年6/30)に掲載されたものです。


註釈

(※11)ファービオ・アンブロージオ・スピノラ『カルロ・スピノラ伝』(宮崎賢太郎訳〝キリシタン文化研究シリーズ28、昭60 キリシタン文化研究会発行)航海の顛末はP43~。
(※12)他の六名の名前等は、同書P164
(※13)同書P48
(※14)同書P61
(※15)『一六・七世紀イエズス会日本報告書』第Ⅱ期第3巻(1997、同朋舎出版)P222―1625/3/28付ジョアン・Rジランのイエズス会総長宛書簡―
(※16)マカオのコレジヨの院長に任命されたヴァレンティン・カルヴァリョ神父は、天草のコレジヨから神学生4人を連れて日本を出発(1601.3)し、マカオに到着した。3人(中浦ジュリアン、伊東マンショ、結城ディエゴ)は司祭叙階の勉強のため、1人(草野アンドレ)は会計の助手としてであった。
(※17)ミゲルの退会は、マカオ留学の選から落ちたのが一因とも言われる。退会後結婚し、大村善前に仕え、06年、善前と共に棄教した。しかし、棄教したか否かは今も尚議論を呼んでいる。

(※18)スピノラに会計係を任命したのは、註(※16)のカルヴァリョ神父である。会計係は知性に加え清廉潔白な人物が求められた。スピノラはマカオで説教も能くし信徒からの人望も厚かった。また、註(※16)にある通り、留学生の草野アンドレはスピノラの助手となったと思われる。
(※19)五野井隆史『日本キリシタン史の研究』(吉川弘文館、2002)P351
(※20)1571年に建立。92年、長崎奉行により破壊。翌年再建。1601年、新たに大きな教会が建立された。その直後、長崎大火災が起きる。教会の延焼は免れたものの、コレジヨは有馬に移された。
 長崎港を望む岬の突端に位置し、祝い日には全ての建物に灯りがともり、海からも街からも美しい光景が眺められたという。場所は江戸町の、2017年まで長崎県庁として使われた所。
(※21)ヴァリニャーノ『日本巡察記』(〝東洋文庫229〟松田毅一訳、平凡社、1973)第六章
(※22)ディエゴ・パチェコ『鈴田の囚人=カルロ・スピノラの書簡=』佐久間正訳(長崎文献社、昭42)P80