『福者デ・アンジェリス神父の冒険』②a
ようやく始まった
日本での
宣教の日々
第二章(1603年~1613)②a
7年に及ぶ航海の末、日本に辿り着いたジェロニモ・デ・アンジェリス(Jeronymo de Angelis)は、カルロ・スピノラ(Carlo Spinola)と共に有馬の学院で一年間日本語の勉強に励んだ。キリシタン大名有馬晴信の居城、日野江城の麓にあって、城に抱かれる様に建てられていた。当時、日本で最も大きい神学校と学院があり(神学校では100名を超える生徒が学ぶ)、そこでは、日本語の他に、日本文学、道徳、ラテン語、音楽、及び日本の宗教と比較宗教学が教授された(※1)。
二人が宣教師としての仕事をスタートしたのは、翌1603年のことである。スピノラ神父は有馬領内にとどまり有家地区へ、アンジェリス神父は畿内へと派遣された。
今回は、その日から10年間にわたる、アンジェリス神父の宣教の日々を追っていく。
・公方家康の時代
ようやく平和な時代が訪れた。
豊臣の家臣同士の戦であった関ヶ原の役は、家康率いる東軍の勝利で幕を閉じた。西軍の石田三成、小西行長、宇喜多秀家らは処刑、流刑となった。秀吉の遺児秀頼は7歳であったため、実権は家康が握った。そして家康の巧みな戦後処理により、秀頼は65万石の一大名に成り下がった。秀頼の母、淀は豊臣の復権を願い、方や家康は名実ともに天下人となる道を模索していた。微妙なバランスのもとで表面上は平和な時が流れた。
イエズス会日本年報の冒頭には、毎年、判で押したように「正義と平和の友、公方殿の時代となり、我々は平穏な日々を享受している」と記されている。
1603年の信徒数は推定32万人。
家康は、秀吉の禁教令を撤回しなかったが、ポルトガル貿易のためにイエズス会を必要とした。イエズス会には日本の政治を熟知する人材がいた。例えばオルガンチノ神父であり、通辞ロドリゲスである。家康も彼らには篤い信頼を寄せた。この年、ポルトガルの定期船がオランダ船に収奪され、イエズス会に被害を与えた時には、家康は350タエル(推定700万円)(※2)の寄進と、5000タエル(推定1億円)を無期限で貸与し、会の窮地を救った。
スペイン貿易のためにフランシスコ会士の江戸居住も許可した。
時折、イエズス会年報に散見する―公方殿は我らの聖なる信仰を嫌っておられ―という文言は後の大弾圧を暗示させるが、友好な関係性の中で、いずれ禁教令も解かれる、そうキリスト教界が信じた時代だった。
アンジェリス神父は、まさにその政治の中心地に派遣されたのだった。
畿内での宣教
畿内(大坂、堺、京、伏見)をイエズス会は最も重視した。信徒数は900名を超える程度だったが、政治を担う武士階級の入信が続いた。畿内について土井忠生氏がこう書いておられる。
――畿内には京都下京のカーザと、これに付属する上京、伏見、大坂、堺のレジデンシア5つがあり、地区長モレホンのもとにパードレ5名とイルマン13名が5か所に分散していた。日本イエズス会が政治・文化の中心地京都を重視し、このために同会の重要人物を布教開始当初から配置して来たことは、ヴィレラ、フロイス、のちにはオルガンチノ、モレホン、アンジェリス、スピノラ(※3)らが同地に派遣されていたことによっても明らかである。更に彼らを支える日本人イルマンも一流の者がこの地に配属された。すなわち、不干斎ハビアン、中浦ジュリアン、洞院ヴィセンテ、原マルチノ、結城ディエゴらが下京のカーザに、良印パウロらが伏見のレジデンシアにいた。――(『キリシタン文献考』三省堂)
アンジェリスの初めての任地は大坂だった。
大坂の教会は高山右近の仲介により、1583年、秀吉が天満橋近くに約2400坪の広大な土地をイエズス会に与えたことで建立された。88年、秀吉に破壊されるが、96年、再建された。この教会では1600年に原主水がペドロ・モレホン(Pedro Morejon)神父から洗礼を受けている。主水は、大坂城西の丸にいた家康に仕える13歳の小姓であった。
アンジェリス神父着任当時の大坂は、「イエズス会年報(1603、04日本の諸事)」によると、高貴な女性信者たちの活躍が目立つ。
丹波領主内藤如安の妹、内藤ジュリアの導きにより信長の娘が受洗した。従姉妹である淀とは親しい仲であり、淀は仏教徒で常に大勢の仏僧を側近としているが、彼女は淀にも秀頼にもキリスト教を語ることを躊躇しなかった。そのため、二人もキリスト教に好意を持つようになった、と書かれている。また、(淀の父方の叔母であり、京極高吉の妻)京極マリアの活躍、内藤ジュリアの活躍が詳しく書かれている。
有馬学院を出たての新米神父はまだ日本の右も左も分からなかっただろう。しかも、大坂はそれまで見てきた長崎、有馬とは規模が違う。城や町、人々のふるまい、その一つ一つがアンジェリスには驚きだったことだろう。幸い、大坂教会の上長、モレホン神父は優れた指導者だった。彼のもとでアンジェリスは司牧の基礎を学び、日本の文化にも親しんでいった。【モレホン神父の略歴は次回末尾に→】
大坂での一年を経て、翌1604年、アンジェリスは主任司祭として(京都)伏見教会を任されることとなった。
伏見教会の歴史は浅い。1601年に家康が木幡山に新たな伏見城を築き、居城とすると、オルガンチノ神父は家康に拝謁し伏見に土地を乞うた。土地が与えられると、直ちに修道院を、翌年には教会を建てた。
そののち、イエズス会は更に広い土地を入手し、アンジェリスが着任すると、その地に新しい教会と司祭館を建てた。
名簿上、アンジェリスの伏見所属は1604~1611年である。
伏見教会の位置は、古地図に「高山右近」邸(※4)と書かれた場所である。家康の城下で「教会」と名付けることは出来なかった。周りは民家に囲まれ、目立たなかった。細い通路(信仰の小道)を通って邸内に入る形である。
現在の京阪本線「中書島」駅の近くで、月桂冠大倉記念館の真向かいに位置する。「伏見南浜小学校校庭」及び「松林院陵」まで含む広い敷地を有していた。
江戸時代、伏見湊は大坂と京都を結ぶ水運の拠点として繁栄した。都を訪問する宣教師はこの伏見教会を宿とすることが多かった。
H・チースリク師は、アンジェリス神父はこの伏見で初めて原主水と出会ったであろう。また、後に東北地方で非常に世話になった後藤寿庵、津軽の弥右衛門や宇喜多休閑一族等に会い、武士階級の人々と親交を深めていった、と語っておられる(※5)。
アンジェリスが話したという関西弁はこの頃に習得したのだろう。
彼が赴任して以後の伏見の受洗者数は次の通りである。
1605年=215名。1606年=250名✻。1607年=265名✻。1608年=250名。1609年=200名✻。1610年=130名✻。 ✻は成人と註記があるもの。(『徳川初期キリシタン史研究』五野井隆史著)
同宿(カテキスタ、宣教補佐役)たちがいたとはいえ、司祭一人では多忙を極めたに違いない。そればかりか、セルケイラ司教や準管区長パシオの政庁訪問の際には一行の宿舎となり、その際の伏見信徒の歓迎ぶりも大変なものがあり、アンジェリスらは諸々の対応に追われたことだろう。彼の仕事はそれだけではなかった。伏見教会の巡回地区となっていた四国東部、東海、駿河、関東へも精力的に巡った。「かねてから日本の東方へ行きたいと考えていた」(『北方探検記』)彼は、この旅こそ自分の本領と感じたかもしれない。
1607年、江戸城を秀忠に譲った家康は、静岡の駿府城を増改築し、伏見から移り住んだ。家康に伴って、多くのキリシタン武士やキリシタン職人が駿府に移動した。そのため、アンジェリスは巡回司牧の際には特に熱心に駿府を訪れるようになった。駿府教会の設立を彼はたびたび上層部に訴えたが、資金不足を理由に却下された。
「1611年度日本年報」に彼の活動の詳細が書かれている。(以下は要約)
――アンジェリス神父は二人の同宿を伴い、関東へ出かけた。上野の国(群馬県)へ嫁いでいた有馬晴信の娘(※6)を訪ねて告解を聴くためだった。その帰路、武蔵の国々と駿河、美濃、尾張、三河、伊勢の信徒のもとを訪ねた。どの国にも大勢のキリシタンがいたが、中でも駿府と江戸に多かった。駿府にはどの場所よりも長く滞在した。非常に大勢の信徒がいて、たいていアンジェリス神父の知人であったので、駿府での宗門の発展を確信した。彼はこの旅で千二百名以上の告解を聴き、二百七十名の成人に洗礼を授けた。信徒の中には天国のことを聞こうと日夜司祭の傍らを離れない者もいた。二人の同宿は説教に休む間がなかった。こうして大収穫を得て一行は伏見に戻ったが、大勢の信徒が男女を問わず子供までもが二里ほどついて来た。彼らは司祭館の維持に必要なものはすべて提供するから、できるだけ早く自分たちの所に来て司祭館を創設してほしいと頼んだ。――(傍点は筆者)
こののち、アンジェリス神父は駿府教会の設立に奔走する。
そして、突如岡本大八事件が起き、駿府キリシタンの柱である原主水、小笠原権之丞、おたあジュリアらの悲劇へと発展する。アンジェリス神父は彼らの身近にいて、彼らを支え悲しみを分かち合うこととなる。
『福音と社会』Vol.323(2022年8/31)に掲載されたものです。
註釈
(※1)前年の長崎大火のため、長崎のセミナリヨは有馬に移り、有馬コレジヨと合併していた。
(※2)江戸初期の「タエル(タエス、テール)」を日本円に換算する様々な資料はあるが、「一テールは銀一〇匁にあたる」(『オランダ商館の日記』永積洋子訳、『バタヴィア城日誌』村上直次郎訳)を基に、1タエル=2万円と私算した。
(※3)スピノラ神父は有馬で司牧と教育に携わったのち、1605年に京都・下京教会に赴任する。敷地内に小天文台を設け、天文学や数学のアカデミアを設立した。それは大いに評判となり、青少年が遠方からも学びに来た。その中から多くの和算家が育ったという。
(※4)「一六一二年度日本年報」には、教会は「ジュスト右近殿の義兄弟孫兵衛」の屋敷であると書いてある。古地図に「高山右近」と書かれた理由を、三俣俊二氏は、〝地図の作成者はここをキリシタン寺と知り、孫兵衛の従兄弟であり、かつ最も著名なキリシタン「高山右近」の名を記入したのだろう〟と考察しておられる。(『伏見学ことはじめ』1999年、思文閣出版)
(※5)「静岡キリシタン文化研究会会報(第8号)1991/3カトリック静岡教会発行」掲載のチースリク師の講演(1989/10/29)。
(※6)有馬晴信の次女は、前橋藩主酒井重忠の次男酒井忠季に嫁いでいた。