『サラ・スペックス、知られざる少女。』その5
第二章 総督クーンと、フリードリヒ・ブルーフ、又の名をスピ・バハリ。ーb
ー前回のラストー
総督と家臣団が城内に戻り、屋上階に残ったフリードリヒは部下のノアに昨年のバタヴィア城包囲戦の攻防の詳細を語り出した。「マタラム・イギリス連合軍を城に引き付けおいてそれをオランダ軍が迎撃する。それが作戦だった。一歩間違えば城が陥落する危険があった」と。
フリードリヒはノアにそう語ったが、真実は違う。ジャワ人スピ・バハリはこの時、まことにバタヴィア城を陥落せんとしてスルタン・アグンに進言したのだった。
スルタン・アグンへのじきじきの進言に先立つこと一ヶ月前のある日のこと。
スピは充分な食糧と武器を携え、秘密裡にバタヴィアを目指して馬を三日三晩走らせた。連合軍の動向を総督に知らせる期日が迫っていた。夜間は火をかかげ、猛獣のいる密林をも駆け抜けた。父のねぎらいの一言。欲しいのはそれだけだった。
三日目の夜、スピは城門の跳ね橋が上がる直前にバタヴィア城にすべり入りこんだ。門番トマトが慌てて中へ通した。いくつもの関門をくぐり抜け、ようやく馬から下りて主塔の中にある総督私邸に到着した。炎天下、休みなしに走り続けて埃まみれだった。
総督の居間の扉から朗らかな笑い声が漏れていた。
トゥルーデがよちよち歩きでもしているのか、クーンが手を叩き、ほらほらこっち、ほらほらこっち、をやっているのだった。聞いたこともない甘い声だった。スピは入室をためらった。入る頃合いを伺い、耳をそばだてた時だった。エファの声が聞こえた。
―あなた・・。最近フリードリヒを見ませんが。
―ああ、あれか。
―どうなさいました?
―あれはマタラム王国へ潜り込ませた。
―まあ、なんという危険な・・。何人の護衛と?
クーンは笑いながら言った。
―護衛だと?一人の兵士さえ惜しいこの時期に。あいつは一人で充分だ。そのために飼っていたのだ。
―まあ、あなたったら。
エファが小さく笑った。
そしてまた、ほらほらこっち、ほらほらこっち、が始まった。スピは足音を消してその場から立ち去った。
自室に辿り着くと、汚れた服と靴を脱ぎ捨て、全身を洗い清めたのち、寝台に倒れ込んだ。復路のために体を休める必要があった。
そして夜明けと共に、誰にも知られず城を出た。
「やっ!」市街地の外門を出ると、一気に馬を走らせた。
―お前を許さん。
―お前を許さん。
狂ったように馬を走らせた。
スピの中でくすぶっていた総督クーンへの憎悪がむき出しとなり、激しい殺意へと変わった。復路の三日間は復讐の炎に燃えて、疾風となった。虎も蛇も盗賊も怖ろしいものは最早何も無かった。
彼に去来するのは、
「クーンを殺し、オランダ軍を滅ぼし、ジャワ人に領土を返す」その一念だけだった。
この時から、スピ・バハリは綿密に計画を練っていった。
上官に真情を吐露する事は避けた。出自が判明した時点で縛り首であろう。間諜スピ・バハリを貫くのが最善策と考えた。
まず、間諜ラルスを利用した。ラルスが罠にかかった。彼の推挙で陸軍大佐へと御目通りが叶うと、大佐から陸軍のイ・デワ・ビンドゥ大将へとスピの作戦計画が運ばれ、ビンドゥ大将はスピを王の離宮に招聘した。軍事会議を間近に控え、大将は奇襲作戦を喉から手が出るほど欲しがっていた。
離宮は、外壁こそ堅牢であったが、門を入り、中庭を抜けると、そこには、竹と木と、棕櫚の屋根から成る美しい宮殿が広がっているのだった。バタヴィア城で育ったスピはそのたたずまいにある種の感慨を覚えた。離宮には爽風が漂い、木漏れ日が射し、梵鐘の様なガムランの音色さえ緩く静かに流れていた。伴として陸軍大佐、ラルス、ヨギ・バンダナイラが同行した。ビンドゥ大将が彼らを待ち受け、長い廊下を渡ったのちに〝王の間〟に通された。
黄金の玉座に王は鎮座していた。下級兵は王を直視してはならぬと命じられていたが、王はよく通る声で、
「面を上げよ」と言った。
マタラム国王、スルタン・アグン Sultan Agung 。
30半ばの若き王であった。褐色の顔に眼光は鋭い。国王たる風格は天性のものと思われた。既にジャワ島の4分の3を支配していた。クーン同様東南アジア一帯の覇者を夢見るこのイスラム教徒は、貿易で賑わうオランダ領バタヴィアを何としてでも手に入れたかった。
「名を名乗れ」
「スピ・バハリでございます」
「ヨギ・バンダナイラでございます」
「ふむ」
下役らが王の前に、バタヴィア市の機密地図を広げた。スピが携えたものだった。地図には見張り番の位置、防御の手厚い場所、手薄な場所、そしてバタヴィア城塞内の略図と護衛の位置、総督私邸の位置が示してあった。下役らが捧げ持つ地図を、王と副王は顔を近づけて隅から隅まで眺めた。
スピが奏上した。
「恐れながら、オランダ軍の大砲、銃器の破壊力を考えますと、バタヴィア城の寝静まる夜間の襲撃、それしかございません。しかし、夜間は跳ね橋が上がりますゆえ襲撃は困難。一つだけ、昼間、マタラム兵を城に潜入させる方法がございます」
「申せ」
「ジャワ商人による大市でございます。二日続け城の中庭で大市を開くのでございます。小規模な市はこれまでも開かれております。開催の交渉はわたくしにお任せください。バタヴィアの市民は大挙押し寄せますし、城は警戒を緩めるはずでございます。商人に扮するのは250名の兵士。一日目は普通の大市を。そして二日目用の第二部隊は城の外で野営いたします。商人のキャラバン隊を怪しむ者はおりません」
あたりは静まり返り、スピの低く張りのある声だけが王の間に響いた。
「夕方、商人らは城外に出されますが、私と、ここに控えておりますヨギ―彼はバンダナイラ島の生き残りでありますが―、そして先鋭隊20名は商品の牛豚の世話と称して城の家畜小屋にもぐり込みます。衛兵らが寝静まる午前0時に作戦開始です。私とヨギは、総督の寝室に侵入致します。私は総督を、ヨギは妻の寝首をかきます。その後、私は城庭に走り、手榴弾で弾薬庫を爆破致します。隣接する兵舎の近衛兵らが爆死すると同時に大量の武器が消滅致します。その爆音はクーン殺害が成功した印とお思い下さい。爆音は攻撃の合図でもあります。先鋭隊20名は直ちに門番らを殺害し開城。連合軍は一斉突入という次第です」
スピは国王に鋭い目を向けた。
「クーン亡き後のバタヴィア城など、主(あるじ)を失った只の伽藍。逃げ惑う兵士らを易々と殺害し、城を占拠出来るはずでございます。早晩、バタヴィアは国王陛下のものとなり、王国の繁栄はいや増すことでしょう」
副王が陸軍大佐に問うた。
「そなたは何と思う?」
「全てこの者次第であります。先鋭隊の潜入、総督殺害、弾薬庫爆破・・どれを取っても不可能。しかし・・この者は・・」とスピを見やり、「入隊時から傑出しておりました」と言った。
「この者は無類の知恵者にして一騎当千の強者(つわもの)であります。この者に懸けてもよろしいかと」
そして副王に近づくと一段声を低めて言った。「作戦が失敗した所で、この者らと先鋭隊が殺害されるに過ぎませんぞ」
スルタン・アグンは無言のまま問答を聞いていた。更に副王はスピ・バハリに機密地図の出所、大市の可能性、総督邸への侵入の仕方等々、詰問を畳みかけたがスピの答弁には曖昧さがなかった。
王は、彗星の如く現れたこの男を凝視した。男の目は異様な光をたたえながら澄んでいた。バンダナイラ島の生き残りという男もまたそれに負けず澄んだ目をしていた。
王は二人を大いに気に入った。
「よかろう。その作戦を採用する」
副王が慌てた。「王よ、急がれるな!」
「いや、これで良い! 余はこの者たちに懸ける」
スルタン・アグンは玉座を蹴る様にして立ち上がると、大声で叫んだ。
「至急陸軍幹部を招集せよ! スピ・バハリ、この者を中心に三日で細部を詰めるのだ! 夜襲戦の得意な者共を呼べ! 伏撃隊の精鋭を今すぐ集めよ!」
8月21日。
10人からなるジャワ商人の一行がバタヴィアの外門、中門を通過した。先頭はスピであった。スピが通るたびに守りの固いはずの門が易々と開かれるのでマタラムの幹部らは驚きを隠せなかった。ヨギはテイヘル運河沿いに建つオランダ風の街並みや煉瓦造りの建物に茫然と見とれた。幹部らは、オランダ人を駆逐し、この街が掌中に転がり込む日を頭に描いた。そうこうしながら一行は城門にようやく達した。スピ一人が門番との交渉に進み出た。
門番トマスが腕組みをして正面に立ちはだかった。スピは米つきバッタのように門番にお辞儀をしてみせた。トマスはその顔を見るなりギョッとした。スピは「旦那様」と言いながら、トマスにクーバン(日本の小判)を10枚にぎらせた。
「どうか、私共の市の開催を商務部にお取り付け、お願い致しまする」
裏取引で私腹を肥やすトマスは金10枚で何でもする事をスピはよく知っていた。
そして最後にこう念押しした。―マタラム軍をわが陣営に引き入れて一網打尽にする戦術だ。よいか。マタラムに悟られぬよう、城内の誰にも漏らしてはならぬ。軍上層部のみの極秘であるからな。
そう言うと更に金一枚を上乗せした。
8月22日。
大市の許可が下りた。
フリードリヒが連合軍を率いて城の周辺に迫ったのを知る者は門番トマスと外門、中門の門番ら数名にとどまった。
8月23日。
ジャワの道化師が踊り、楽団は笛や太鼓を吹き鳴らしバタヴィア中に大市開催を知らせた。牛50頭、豚50頭、果物100籠、野菜100籠、砂糖300袋、米500袋。城内大市には市民らが押し寄せた。250名の商人はかいがいしく商いをした。
夕方、市民と商人は城外へと追い出されたが、先鋭隊20名は守備よく家畜小屋にもぐりこんだ。スピとヨギの他に英兵2人が総督夫婦殺害の突入隊に加わった。
真夜中になった。キャラバン隊を装った城外3.000余のマタラム兵は粛粛と配置につき、今や遅しと開戦の時を待った。イギリスの領地である城外の西側には既にイギリス軍が5.000人の配備を済ませた。海からは連合艦隊八隻が城の東を徐々に包囲していった。
午前0時。スピとヨギ、英兵二人が闇の中を走った。
まずクーンとその妻の殺害である。
「ぬかるな」
「はっ」
スピが通るたびに主塔門、総督邸の扉が次々に開かれたが、ヨギはもう不思議に思わなくなった。自らもまた全能感に満たされ始めていた。
突入のさなか、ヨギは同僚の横顔を見ずにはいられなかった。優しさは故郷の海を思わせ、漲る力はジャワの神々を思わせるスピ・バハリ。スピのおかげだ。ばあちゃん、かあちゃん、ミウ、見ててくれ。クーンとその女房を殺してやるぞ。ヨギの心臓が高鳴った。スピの肩を掴むと、スピはヨギを振り向き大きくうなずいた。
4人はひとかたまりとなり、総督邸の廊下に忍び入った。そして幾つもの部屋を過ぎ、用意した合鍵でスピは寝室の扉を開けた。暗闇の中に寝息が聞こえていた。
そして寝台に近づいた時、スピはギクリとして立ち止まった。
総督は一人であった。若き妻はそばにいなかった。
東アジアの王が、独り寝をしていた。
月光のもと、総督クーンの寝顔には深く皺が刻まれ、41歳というのに、もはや老人の相貌であった。
頭上に一枚の絵が懸けてあった。
戦勝パレードの一場面だった。若き総督と王子が歓声を浴びながら馬に乗っていた。総督は顔を心持ち王子に傾けていた。スピの脳裏にその光景が蘇った。
スピは目をキッと閉じた。邪念よ、去れ、去れ! わが真実の名前は何だ。わが名はスピ・バハリ! 違うか!
スピは目を見開いた。
そして三人に耳打ちをした。
「クーンひとりだ。私一人で充分だ。お前達はここにいろ」
空気の緩んだその時だった。スピはくるりと後ろを振り返りざま、半月剣でヨギの首をかき切った。血が噴き出した。ヨギは自分の身に何が起こったのか分からなかった。首が生温かいので裂け目を抑えたが血を止めることは出来なかった。次にスピは英兵の首を半月剣で切り裂いた。もう一人が剣を構えたその腕を払い、瞬時に右腕を逆方向に回し、背中で固めたあと首を切り裂いた。フリードリヒは横倒しになる寸前の男の心臓を正確に狙って一突きした。
武術シラットの完璧な手順であった。
ヨギは、―なぜ?ーという目のまま絶命した。
「何ごとだ!」
総督だった。すでに短剣を構えていた。
「父よ! 私です!」
「フリードリヒかっ!」
「暗殺の危機でございました! 少しお待ちを」
フリードリヒは虫の息の残りの兵士に向かい、波状剣で心臓を一突きにした。
―許せ! 私には・・どうしても父は殺せん!
声を殺し、全身で慟哭した。
―われは悪の化身なり。
彼はめまぐるしい早さで、頭の戦略図を180度転換させた。転換図はカッチリと定まった。よし、これだ。
総督の足元にひざまずき、叫んだ。
「城が、包囲されました!」
「!」
「ご安心ください! これも作戦の一つ! 直ちに連隊長に知らせ、迎撃のご指示を! 敵は気付いておりません。迎え撃つのです!」
そして、城門前に3.000の兵士が、城の西に5.000の兵士が潜み、東岸には軍船が2.000の兵を乗せている事を言った。そして、「私が合図しましたら、大砲の一斉発射を!」、それだけ言って英兵の首を刀で斬り落とし、それを鷲掴みにすると部屋から出て行った。
クーンは常備灯の種火から軍事灯へと点火し、窓辺に走り、向かいのルビー塔の監視窓へ、はっきりそれと分かる様に火の信号を送った。反応が無かった。
「くそ!」
もう一度、軍事灯をかかげた。ルビー塔の監視兵は眠い目でそれに気付くと、泡を喰って向かいのダイヤモンド塔の監視窓へと火の信号を送った。次いで、パール塔へ、サファイヤ塔へと信号が転送された。信号は監視兵からそれぞれの伝達係を通じて大佐から大尉へ、軍曹、兵長へ、そこから、更に軍の隅々にまで血管に血が流れる如く伝達網が躍動し、全ての兵士へと伝達された。クーンが発した緊急信号は、
―城が包囲された。
―各部隊は直ちに配置につけ。
―そして、合図を待て。
を意味した。
クーンが軍事灯をかかげてから5分で連隊が初動を始め、20分後には全ての兵士が一糸乱れず攻撃の位置に付いた。
一方、マタラム連合軍は苛立ち始めていた。
「遅い!」
「クーン殺害に失敗したのか?」
「弾薬庫爆破はどうした!」
「しっ!橋です!橋が下り始めました!」
大将らの目の前で、跳ね橋が鈍い金属音をたてながらゆるゆると下り始め、接岸と同時に城門が開かれた。橋の上を一人の男が歩いてきた。スピ・バハリであった。片手には血の滴る人の首を持っている。
連合軍の潜む暗闇にむかってスピ・バハリが立った。暗闇の指揮官らは目を凝らした。
月光がスピ・バハリを照らした。
すっくと立つその姿は殺気立つ程の美しさで、ジャワの聖獣バロンの化身かと見まがった。
スピ・バハリの目に、月光が万物を照らし出すのが見えた。茂った木々、枝々、葉の一枚一枚が見えた。物蔭には飛び出すのを待つ兵士らが見えた。遠い目で、その全ての陰と陽を眺めた。
一つの影が動き、大将ビンドゥが暗闇から姿を現した。スピは身をかがめ、慇懃に礼をした。
「閣下、総督クーンを殺害致しました」
「よくやった!」ビンドゥはスピの掲げる血だらけの首に唾を吐いた。
「お静かに! 敵は誰一人気付いておりません」
「しかし、合図の爆破はどうした?」
「事情が変わりました。手短に申し上げます」
大将は手を広げ、軍にむかって一旦休めの合図をした。ひそかなざわめきがあって、闇に潜む数千の兵士は戦闘準備の解除を始めた。
スピ・バハリは冷静にひとーつ、ふたーつ、と数えた。みーっつ。解除が済んだ。スピは頭上高く銃をかかげ、空に向かって一発の銃声を響かせた。
合図を待っていたルビー塔、ダイヤモンド塔から、すさまじい雷音と共に大砲が火を吹いた。砲弾が敵陣に命中し、兵士らが飛び散った。更に砲弾が撃ちこまれ、大地を揺るがした。爆音に馬たちがいななき跳ね回り、遁走していった。安眠をむさぼっていた市民は慌てふためき、金庫を持ち、裸足のまま家を出て、城から出来るだけ遠くに逃げ出した。パール塔からは西のイギリス領へと無数の砲弾が撃ちこまれ、陣地をこなごなにした。サファイヤ塔は敵船8隻中、5隻を海に沈め、残りを遁走させた。
大砲の攻撃が止むと、今度は騎兵隊、歩兵隊が、耳をつんざく銃声を響かせながら、城門から敵陣に向かって大波のように襲撃していった。
こうして、第一次バタヴィア城包囲戦はオランダ軍の完全な勝利に終わった。連合軍の兵士、5.500余名が犠牲となった。連合軍議会は、オランダ軍の間諜が暗躍したことは疑わなかったが、その日を境に消えたスピ・バハリなる男の行方をどうしても掴むことが出来なかった。
国王スルタン・アグンは怒りの余り、離宮に捕えられていた全ての捕虜たち―オランダ兵ならずとも、過去の戦での捕虜、バンデン兵であれ日本の傭兵であれ300余名をオランダがお得意とする馬による八つ裂きの刑に処した。
* * * * * *
これは昨年―1628年―のことである。
城内には女子供が残されていた。
サラ・スペックス。彼女はこの時11歳だった。総督私邸内の自室で寝ていたサラは、深い眠りのさなか、世話人のトシに起こされ、おんぶされて避難室に入った。戸口を5人の近衛兵が固めていた。避難の指揮を執ったのは少尉ピーテル・コルテンフーフだった。主塔の中の避難室には上級商務員の妻子らと多数の召使いがいた。サラを見て皆が部屋の中央を譲った。大砲が敵陣へと砲弾を撃ち込む度に城は振動し、女達は悲鳴を上げた。トシはサラに「ここは千年城でございます。ご安心なさいませ」と言い続けた。サラはトシの胸にしがみついた。そして非常時に沸く高揚感の中でまたうとうとした。
第一次包囲戦で、オランダ軍は圧倒的な力を周囲に示した。
総督クーン。国家の英雄にしてバンダの殺戮者。
私にとっては父上。
晩餐で酒が入ると総督はしばしばこう言う。
「私がどれほどの富をオランダにもたらした? わが偉業は500年後にも語り伝えられるか? そしてわが名は? 言ってくれ。息子よ」
総督は孤独なのだ。私は答える。
「総督ほどの英雄は他におりません」
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バタヴィア城の南西、ダイヤモンド塔。南方の熱帯雨林には何の動きもない。
フリードリヒの額からも止めどなく汗が滴り落ちた。少佐ノアはこの大切な上官に、絞ったタオルをお渡ししようとして、水桶の水が湯の様になっているのに舌打ちし、地下保冷室に向かおうとした。
その時、階段から軍靴が響き、目眩から復活した総督が家臣団を引き連れて屋上に戻ってきた。ノアはその場に跪 き、一同を通した。
総督はしっかりした足元でフリードリヒのもとへ来た。
「どうだ?」
「何の動きもございません」
クーンは望遠鏡を受け取り、再び南方に向けた。クーンの望遠鏡には相変わらず緑の樹海と、そこに潜む魑魅魍魎が映るだけである。そして再び屋上をいらいらと歩き、下役らは総督に遅れじと日傘を掲げ総督を追い駆けた。
総督が三往復もした頃だった。
「総督!」
猛烈な勢いで一人の役人がやって来た。
「申し上げます!」
役人は総督の前にひれ伏した。
「オランダから当地に向かいました新造船『バタヴィア号』が船団より離れ、行方不明になっておりました。このたび、バタヴィア号の船長、船員ら47名が港に救命艇で到着致しました」
彼はこう報告した。
昨年10月28日、オランダを出航したバタヴィア号は4月に喜望峰を出たのち、嵐に流され、6月4日未明、南方沖の岩礁に衝突し座礁。その衝撃で船は倒壊。船長によれば、近くには島もなく、残された270名の安否が気遣われるとのこと。生存者救助のため、ただちに救助船を出さなければなりません。
クーンは苦々しい顔をした。
―新造船バタヴィア号が座礁、倒壊とは縁起でもない。くそ忌々しい! 造船費10万ギルダー。積荷30万ギルダー。巨万の富が南洋に沈んだ!
「その船団、ヤックス・スペックスが総指揮官ではなかったか?」
「船長が申すには、スペックス様は急用の為、オランダにとどまったとのことです」
「ふん。強運な男だ。で、いつ帰還する!」
「じきに戻られるかと」
「ならばバタヴィア船の事後処理はスペックスに任せる!」
総督クーンは家臣団に顔を向けると決然と言い放った。
「よいか!マタラム王国に乗り込むぞ! 腰抜けどもはこっちから成敗してやるわ! 部隊を招集せよ!」
「ははーっ」
いきなりの命令に、家臣団が右往左往し始めた。
「フリードリヒ、伴をせい!」
「はっ」
さっきまで病室にいた人物と思えなかった。戦へのたぎり立つ興奮がクーンを健康にした。
愛娘トゥルーデの急死、妻との不和、それらを払拭できるのは今や戦への興奮しかなかった。
バタヴィア市街地の外門へと1.000人の兵士を引き連れて軍団が進んだ。歩兵のあとを勇壮な騎馬隊が続いた。
騎馬隊の中心は総督クーンとフリードリヒ・ブルーフであった。