『サラ・スペックス、知られざる少女。』その8
第五章 父ヤックス・スペックス ーa 妻マリア
チパングは東海にある大きな島で、大陸から二四〇〇キロの距離にある。
住民は色が白く、文化的で、物資にめぐまれている。偶像を崇拝し、どこにも属せず、独立している。
黄金は無尽蔵にあるが、国王は輸出を禁じている。しかも大陸からは非常に遠いので商人もこの国をあまりおとずれず、そのため黄金が想像できぬほど豊富なのだ。
この島の支配者の豪華な宮殿についてのべよう。ヨーロッパの教会堂の屋根が鉛でふかれているように、宮殿の屋根は全部黄金でふかれており、その価格はとても評価できない。宮殿内の舗装路や部屋の床は、板石のように、四センチの厚さの純金の板をしきつめている。窓さえ黄金でできているのだから、この宮殿の豪華さは、まったく想像の範囲をこえているのだ。
バラ色の真珠も多量に産する。美しく、大きく、円く、白真珠と同様、高価なものである。この国では死体は土葬にされることもあるし、火葬にされることもある。火葬にするときは真珠を口の中に入れる習慣になっている。その他の宝石も多い。
『東方見聞録』(第二章)マルコ・ポ—ロ著 青木富太郎訳 河出書房新社
1629年9月22日朝。
洋上で朝食を終え、甲板の長椅子でくつろぐヤックス・スペックスは、船員に望遠鏡を持ってくるよう命じた。すると、船長自らが甲板に出向き、望遠鏡を恭しくスペックスに渡した。
彼は立ち上がって東の方角に望遠鏡を向けた。インド洋は全き凪の風景であった。
サラ・スペックスの父、ヤックス・スペックスが指揮官を務める商船はアムステルダムを出航した後、ケープタウン商館へ何割かの商品を降ろし、その分の新たな商品を積み、順風満帆、一路バタヴィアへと向かっていた。
彼は六月に起きた「サラ・ピーテル事件」を知らずにいた。また、同時期にジャワ島の遙か南方で起きた「バタヴィア号事件」をも知らずにいた。「バタヴィア号」は、自身が乗り込むはずの帆船であった。
インド洋のゆるやかな浪間に光の粒がチラチラと漂っていた。あと半日もすれば遠くにジャワの島影が見えてくるはずだ。
スペックスは長椅子で朝の陽射しを浴びる新妻に声をかけた。
「マリア、来てごらん」
「ええ」
スペックスは妻に望遠鏡を渡しつつ注意を促した。
「両手で持つんだよ。重いからね」
「ええ」
「いいかい。太陽を見ちゃいけないよ」
「ヤックス、分かっていてよ」
妻マリア・オディリア・バウス Maria Odilia Buys は笑いながら、夫が指さす方向に望遠鏡を向けた。
「ほら、綺麗な海だろう」
「ええ」
スペックスは、望遠鏡を無心に覗き込む妻を横から眺めた。オランダで誂えた派手な夏用のドレスに身を包み、胸元をオーガンジーのケープで隠している。ケープがひらひらと潮風にそよいだ。
スペックスは平戸の妻をふと思ってみた。妙が朧月だとしたら、マリアは北欧の太陽だ。
真っ白い首筋、真っ赤な唇。美貌を引き立てるルビーのイヤリングとネックレス、そして衣装。全てヤックスの見立てである。
―いよいよ、王妃のようじゃないか。
アムステルダムでも評判の美人姉妹だった。家柄も良い。そして父親が投機でしくじっていた。
腹心のベンヤミンが友人知人のツテをたどり、見つけ出した逸品だった。
ある日のチューリップ市だった。市場は活況を呈していた。
スペックスは市場をぐるりと見回した。わが社の富がこうしてオランダの隅々を潤わせているのだ。彼は高みから見下ろすかのように、しばし市場の賑わいを満ち足りた気持ちで眺めた。
「スペックス様」。ベンヤミンが耳打ちした。
「あちらにおられます」
遠くに五人家族が見えた。五十がらみの女が熱心に球根を物色していた。女はしゃがんだり立ったりし、夫に話しかけるが、夫の方は生返事しつつ、落ち着きなくベンヤミン達を探しているのだった。
その父母の後ろに妙齢の女二人が控えていた。その脇にいる青年は弟らしかった。
ベンヤミンが高く手を挙げた。
「バウス殿!」
男はこちらに気付くと「おお、これはこれは」と驚いてみせた。
でっぷりした赤ら顔の田舎貴族である。
「ベンヤミンさんではないですか。こんな所でお目にかかれますとは!」
「奇遇でございますね」。ベンヤミンはそう言うと、男をスペックスに紹介した。
「閣下、こちらは知人のコルネリス・バウス Cornelis Buys 殿でございます」
バウス氏はツバ広のフェルト帽を大仰に脱ぎ、胸に当ててオランダ式にお辞儀すると、妻に言った。
「なあ、お前、こちらは東インド会社のベンヤミンさんと、ええと・・」
「はじめまして。バタヴィアで事務総長をしておりますヤックス・スペックスと申します」
「おお、スペックス様。あなた様がスペックス様で・・。お噂はかねがね。ほらほら、ご挨拶を」と妻を促した。
妻が挨拶すると、次いで姉と妹がドレスをつまみ軽く腰を落とした。青年は片手を胸に当て頭を下げた。
スペックの目は姉娘に注がれた。
目利きであること。それはスペックスの絶対的な自負心であった。
日本人の欲しがる絹織物の、皮革の、工芸品の目利き。その目利きの目が姉娘に注がれた。
その肌はまるで唐の白磁だった。しなやかな髪の毛は絹の本繻子。その表情はボッティチェリの女神に似ていた。
―実に美しい。
―声が聞きたい。その声が。オランダの発音を、その唇から。
事務総長の表情に注意を払っていたバウス氏は、「マリアよ」と言った。
「この方はね、かの総督クーンの片腕であられるのだよ」
姉娘は硬い表情でこくりと頷いた。
バウス氏が尋ねた。
「今回はどのようなご用事で?」
「貿易の報告に本社に参りました。そろそろ秋期船団が出ますので、バタヴィアに戻ります」
「さようで」
青年が、「事務総長様。勇気のいるお仕事ですね」と尊敬の眼を向けた。
「どれほど遠くまで航海されたのですか?」
「以前は東インドの最果て、平戸の商館長をしておりました」
妹が口を開いた。
「フィラド?」
「ええ、平戸です」
「お姉様、御存知?」
姉はしばし考えた後、スペックスを見て、
「フィラドと言えば、船の終着港の平戸ですわね」と言った。
「一度行ってみたいですわ」
―Ik zou er graag een keer naartoe willen gaan.
日本の女には発音できないG【kh】の摩擦音が私の耳をくすぐった。
―まちがいない。
心は決まった。
「そうです。黄金の国の平戸でございます」
「素敵!黄金の国ね!」。妹は無邪気である。
バウス氏は、相好を崩すと、間髪入れずに言った。
「スペックス様、それは興味深い。ジパングのお話ぜひお聞かせ願えませんか。今度お帰りになるバタヴィアのお話も是非。なあ」と妻に目配せした。
うっかり者の妻は今日のチューリップ市の目的をようやく思い出し、顔を赤らめた。一度、球根への投資で成功したことが忘れがたく、チューリップ市に足を踏み入れると珍種、新種をはしたなく目が追ってしまう。妻の様子に心で舌打ちしたあと、バウス氏は、「なあ」と今度は娘たちに同意を求め、
「私共は東洋など行ったこともございません。この町は全く退屈なもので。こんなちっぽけな球根の相場に一喜一憂するのが関の山・・。私共の無聊をどうかお救い下さい」
そしてもう一度娘たちに「なあ」と言った。
マリアはスペックスに向かって初めて微笑んだ。スペックスは年甲斐もなく心が浮き立つのを覚えた。
「ベンヤミン君、有難いお誘いだ。いつがいいだろう」
「閣下、来週は会社の重要会議でございます。それが終わる週末にでもいかがでしょう」
重要会議!そう。来週は実に、わが審判の日々なのである。
「来週の週末でございますね。約束ですよ。お待ちしておりますから」
そう言うと、バウス氏は妻と共に深々と頭を下げ、二人がチューリップ市を後にするまで見送るのだった。