『サラ・スペックス、知られざる少女。』その3

転がる鞠

第一章 バタヴィア城ーb 1629年4月転がる鞠

 

 

 

 い階段から中庭に降り立ったとたん、「まぶしい!」と思わず日本語で叫んだ。
「たまらんばい。朝からお天道さんがこうギラギラと・・」
 そう言ってトシが笑う。
 トシといると日本語が口から出てしまう。トシがいなかったら、とっくの昔に日本語は忘れただろう。

「Een ogenblik geduld alstublieft !―お待ちくださいませ―」
 下女たちが私とトシにそれぞれ日傘を差し出す。子供のニラムとマルガは私の手さげを持ってくれて、そうやって私たち子供をまん中に、十人ばかりの集団で城の中庭を歩いた。

 足早に通り過ぎる商人や船乗り。朝から中庭はにぎやかだ。時々珍しい品物が通る。引かれてきたのは黒毛のアラビア馬だ。その後ろから大籠が続く。あぁ孔雀だ。城の子供たちがわっと言って大籠を囲み、くっついて離れない。この間は小象も通っていった。ここは一日いても飽きない。
 会う人は皆、立ち止まって私に礼をする。近衛兵はきっちりと挙手をしてくれる。
 会釈を返すのはトシだ。
「ああ、はい。はい。華僑の頭領様ね」
「ああ、はい。はい。隊長様ね」

 トシはこの国でも日本の着物を着ている。だから目を引く。トシはそれを気にしない。着物を着ていつでもきびきびと動いている。トシのそばにいると、平戸でお別れしたお母さまを思い出す。トシの匂いにお母さまを思い出す。いえ、トシの匂いがお母さまの匂いだ。お母さまとお別れしたのは四つの頃なんだもの。私の記憶もあいまいで、優しいお顔がぼんやりと目の前にあるだけで、本当はどんなお顔をなさっていたのか自信がない。仮のお父クーン様、仮のお母エファ様のように立派な肖像画でもあればいいのに、そんなものは無い。筆絵さえ無い。マリア様の御絵ごえがあるだけだ。
 ある時トシが自分の聖書から御絵を出して、
「サラ様に差し上げましょう」と言った。
「サラ様のお母様によく似ておいでです」。そう言うと御絵に口づけしてから私にくれた。お父様も、クーン様、エファ様も聖母の御絵など見たら、「カトリックの!」と怒って捨てておしまいになるに決まってるので、私は宝箱に隠している。そして時々出しては眺める。御絵にはほんのり香りがあって、私をうっとりさせる。

 ニラムとマルガが「ここ、ここ」と荒物屋さんの前ではしゃぎ出した。この棟には糸紡ぎ工房に仕立て屋さん、革細工屋さん、鍛冶屋さんが軒を連ねている。野菜や果物の店まであって、たいがいの日用品はここで足りる。城で生活する人達のための商店街だ。
 荒物屋さんには外国から運ばれた食器や金物や布製品が所せましと並べてある。絵本やおもちゃまであるから私たちは必ず足を止める。

「いらっしゃい、サラお嬢様。トシ様も」
「何か面白いものは届きましたか? 」

 トシと店主が世間話をしている間、私たちはこれもほしい、あれもほしいと目移りしてしょうがない。そして、私は店の隅の毬に気付いた。空色と桃色の模様のある可愛い手毬だった。
「トシ、あれがほしいわ」
 日曜日にポルトガル教会で会うお友だちと一緒に遊びたいと思ったのだ。その子には親がいない。私を見るといつも駆け出してくる。
 店主が「さあ、お嬢様」と言って私に渡してくれて、毬を抱いたままいつもの植物園へ行く途中で私たちはちょっとした「出来事」に遭遇したのだった。

 トシが急に立ち止まった。
「お嬢様、ご覧なさい」
 お城の近衛兵の行進だった。
 ザッザッ。ザッザッ。
 鼓笛隊の音に合わせて四列の兵士たちが足並みをそろえて行進してきた。先導する兵隊は赤い上着に純白のズボンという凛々しいいでたちだ。
「ご立派ですね」
 まわりの誰もがトシの言葉にうなずく。
「このお城を守って下さっているのですよ」
 後ろには若い兵士たちが続く。
「オランダ軍が遠征に行かれても、近衛兵がおりますからね。お城は安心です。クーン様が城に戻られてから、バタヴィアはキリっと・・・・なりました」
 トシは総督クーンへの嫌悪感を内に秘めた。余計なことはサラに言わなかった。サラを健康にすくすくと育てる。それが平戸時代の恩あるたえと交わした契りであった。クーンは二年前、バタヴィア総督に返り咲いた。オランダへ向かったサラの父と入れ替わる様に帰還した為、サラの父は養育をクーンに託した。しかし、〝二等人種〟に対する総督の扱いは酷なものだった。クーンはサラに奥方の身の回りの世話、赤ん坊トュルーデの世話までさせようとした。まるで小間使いではないか。トシは奥方がサラに命じる仕事を率先して自分が行った。年若く、バタヴィアの事を何も知らない妻エファは、痒い所に手の届くトシの仕事ぶりに満足し、サラを使う必要がなくなった。

 兵士らが一糸乱れず行進をしていた、その時だった。中庭に、一陣の風が立った。
「あっ」
 毬が腕から落ち、ポンポンと隊列の方へ転がっていった。
 下女が追いかけたが、見る間に隊列に吸い込まれていった。列が乱れて小さなざわめきが起きた。そしてどこかで止まった。
 「はい!了解」と声がして、一人の兵士が毬を手にこちらに走って来た。
 兵士は私ににっこりと笑いかけた。
 まだ大人じゃない。子供というのでもない。優しいお兄さんの顔をしてる。
 兵士は片膝でひざまずくと、「お嬢様」と言って、毬を捧げてくれた。
「ありがとう」
 ドレスをつまんで靴のつま先をトンと鳴らした。
 静まった隊列にくすくす笑いが起きている。
 兵士は茶褐色の巻き毛を風に揺らし、私を覗き込むようにして、
「その後、お変わりありませんか?」と言った。澄んだ目をしていた。
 下層の者にどう答えたらいいのだろう。返事に困っていると、トシが横から、
「あ、あの時の」と頭を下げた。
「お城の包囲戦の時に、防御室シェルターの私達を守って下さった方ですよ」
 トシがそう言っても、私にはうっすらとした記憶しかない。

「お陰様でお嬢様も私達もみな元気ですわ」
 兵士は「なによりでございます」と、もう一度こちらを見て深々と礼をした。

「ピーテル! ピーテル!」
 上官のどなり声が遠くから聞こえた。
 兵士は即座に直立すると、「では」と言い残し、一目散に隊列の中に消えて行った。

 それから私たちは中庭の東南にある植物園に入った。園内にはこの国にない植物ージャワの気温に耐えられたオランダの植物や日本の植物ーもわずかに育っている。開け放されたガラス窓から潮風が心地よく通り抜けていく。私たちは水がめからジョウロに水を入れて、端から雨を降らせていった。ニラムとマルガは花から花へと蝶々になって水を撒いていく。この暑さに勢いを無くしていた草花が生気を取り戻す。草花に降った光の粒がさらさらと揺れる。この瞬間が一番好きだ。
 それから南端の城門が開いているのに気づいて、城門まで皆で行った。お堀の向こう、オランダの街並のその向こうは南国のジャングルだ。怖ろしい野獣や野蛮人が隠れている。トシの手をぎゅっと握ったまま、体を乗り出した。

「おっとっと」
 門番のトマスが門の前に立ちはだかった。
「お嬢様、トシ様、ここは危険でございます」
 トマスはこわい顔で言った。
「つい先ごろ、市街地の外壁が壊れておりました。そこからヒョウが躍り出たのです。原住民と兵士の1人が犠牲になりまして・・。猛獣ばかりではございません。マタラム軍が又八月に蜂起するだろうと、総督が監視を続けておられます」
「おー、怖い、怖い」
 トシは首をすくめてトマスを笑わせ、皆でまた中庭へ戻った。
 近衛兵はもう消えて中庭はからっぽだった。

「ご機嫌はいかがですか?」
 午後おそく、フリードリヒ先生が部屋にやって来た。

 フリードリヒ・ブルーフ・クーン Frierich Brug Coen。

 私が物心つく頃にはすでにこのお城にいた。バタヴィアでの最初のお友だち。
 この頃は昔のようには遊んでくれない。会えるのは週に二回だけ。社会の授業の時だけ。それも忙しければお休みだ。普段はクーン様の警護をされている。先生はクーン様をいつもは「総督」と呼ぶのに、私邸では「父上」と呼ぶ。顔はまるで似ていない。顔は混血の顔で背はスラリと高く、美男子だ。西洋の冷たい美男子とも違う、整った顔の中に温かさと荒々しさが混じり合う・・そんな感じなのだ。

 先生は以前こんなことをおっしゃった。

「クーン総督は、オランダが世界一優れた国で、単独で世界制覇した方がよいとお考えです。アンボイナ事件での総督の決断が見事・・で・・ある者達は残虐・・と申しますが・・。それで一時失脚しオランダに召還されたのです」
 アンボイナ事件―。その時の授業でこんな風に習った。

 1623年、モルッカ諸島南方のアンボイナ島で起きた事件。島の香辛料の利権をめぐり、蘭英は協定を結んでいたが、時折決裂した。1623年2月、島に駐留する英軍の日本人傭兵・七蔵がオランダの近衛兵に城壁の構造や兵士数を尋ねた。不審に思った近衛兵は七蔵を捕縛する。七蔵は「英軍のオランダ要塞奪取計画」を自白した。3月、総督は英国商館長ら要人及び英国人10名、日本人10名その他を処刑。蘭英本国で進展していた東インド会社合併案は破綻。英国をアンボイナ島から撤退させ我が国が島を占有するきっかけとなった事件である。

「見事? 残虐? どちら?」。他意なく、ふと口から出てしまった。
 先生は一瞬口をつぐみ、「サラ様」と私の目をヒタと見据えた。
「総督は、時代に選ばれしお方」
「時代に?」
「そうとしか言いようがありません」

 今日の授業は「オランダ東インド会社の歴史」。始めからあくびが出てしまう。
 先生は帳面に縦に長い線を引いた。そして頂点に〝日本〟、底点に〝バタヴィア〟と書いた。その縦線の真ん中にポツンと点を打ち、〝台湾フォルモサ〟と書いた。

「いいですか。日本から台湾に、台湾からバタヴィアに、金、銀、銅が」
「そして、バタヴィアから台湾に、台湾から日本に、生糸、絹織物、香辛料が。台湾からは日本人の好む鹿皮も加えて」
 先生は長い線をなぞりながら、商品の流れを教えてくれた。
「私の国は、金、銀、銅の国・・」
「そうです。黄金の国ジパングです」
 先生は底点から今度は左に向かって垂直に、角度を少しずつ変えながら幾筋もの線を引き、
「このバタヴィアの港から、インド、ペルシャ、オランダへと多くの品々が輸出されているのです。この流れを作られたのが、総督であり、あなたの父上です」
「すごい」
「お二人の尽力が、オランダの繁栄を創り出したのです」

 先生の引いた線上を無数の金銀銅と無数の絹織物がキラキラと流れていくようだった。遅れて鹿が光の波の上を走った。
 先生はそこに世界地図を広げた。
「さあ。地図で確かめましょう」
 先生は、ここがバタヴィア、ここが台湾、と指で差していった。
「見て、日本!」
 私は地図の東の果てに、蝶のサナギに似た日本を見つけて喜んだ。喜んだあとで、バタヴィアからのあまりの遠さに悲しくなった。
「台湾からなら日本に泳いでいけるの?」
 先生は「行けますとも」と笑った。
「ただし、鯨に喰われなければ、ですが」

 のどかな午後だった。太陽が西の空に傾きつつあった。
 マタラム軍の蜂起とは何のことなのだろう。前の包囲戦の時だって、「千年城」の中で私は安全だった。
 先生の抑揚ある話し声を聞いているうちに、私はいつの間にか大海を泳いでいた。鯨も一緒に泳いでいた。疲れたら鯨の背中でお昼寝した。
Saartjeサラチェ」-サラちゃんー
 とろとろと、うたた寝をしてしまったらしい。気が付くと、先生が優しい目で私を見ていた。
「先生、少しお休みを頂戴。喉がかわいたの」
「しょうのないお姫様ですね」
 先生は下男に水を持って来させ。「さ、ごゆるりとお休み下さい」と言い、ご自分がひょいと長椅子に身を横たえて寝てしまわれた。疲れていらっしゃるのだ。

 中庭に面した窓辺に立ち、レースのカーテンを開けると、バタヴィアの夕空が大きく広がっていた。夕空を眺めると、いつも悲しみで一杯になる。

― お父さま、いつ帰っていらっしゃるの?
― お母さま、今頃なにをしていらっしゃるの?

 バタヴィアの夕映えは怖いほど美しくて、なぜだか門番トマスの言ったトラやマタラム軍を連想させた。 

 その時、窓の下に人影があるのに気付いた。
 人影はこちらを見上げているようだった。

― あら、とサラは思った。
ーさっきの兵隊さん。

 目が合った。その途端、兵士は逃げる様に去っていった。

 

その4 へ つづく