『サラ・スペックス、知られざる少女。』その11

奉行ら

権力者たち第五章 父ヤックス・スペックス
―c スペックス再度の弁明ー平山常陳事件を語る②ー

 

 

 

 1620年8月4日早朝。
 エリザベス号が平山船を曳航しながら平戸の玄関口、川内浦かわちうらに入港した。
 川内浦には無数の小舟が待ち構えており、囚人と双方の乗組員らは役人に命じられるまま小舟に乗り換え平戸港へと率いられていった。到着したのはその日の午後である。港には取調官と役人が待機していた。貿易商、商人らはやや遠方からその模様を眺めていた。

平戸オランダ商館周辺風景
平戸港とオランダ商館

 翌月、平戸藩主()まつら()隆信は、疑惑の二人をオランダ商館の地下牢に留め置くようヤックス・スペックスに命じた。
 ――なぜ?
 ヤックスには妙な胸騒ぎがした。
 なぜ平戸藩の牢ではなく、わが商館の牢なのか。
 これ以降、地元の権力者たち――藩主始め長崎奉行、長崎代官、町年寄ら――の態度にヤックスはしばしば「なぜ?」と自問自答することになる。

 古くから南蛮貿易、朱印船貿易を生業としてきた長崎商人や庶民が囚人と平山常陳をかばうのは想定内だったが、長崎奉行らが本気で二人の正体を暴こうとしないのである。二人の身分を示す確たる証拠は深い霧に包まれていた。その内情がうっすらとヤックスにも見え始めたのはだいぶ経ってからである。深い霧の正体は、権力者らの〝保身〟であった。

 平戸藩主は藩の牢獄に二人を閉じ込めて自白を迫り、カトリック教徒の恨みを買いたくなかった。松浦家は代々熱心な仏教徒にして、今やオランダ・イギリス贔屓であるが、藩主の母メンシアは、キリシタン大名大村純忠の娘であり敬虔な信者として名高かった。藩主も切支丹だった時代がある。それに加え、長崎の朱印船に――大名の貿易介入はご法度だったが――秘かに出資してもいた。その意味では常陳側にも立った。
 長崎奉行・長谷川権六ごんろく
 彼もかつては切支丹だった。禁教令に従い棄教。「将軍の買物係」と陰で揶揄される人物だが、むしろ自分の買物に多忙だった。平戸藩主同様、朱印船に秘密裡に出資し、長崎商人と利益を一にしていた。平山常陳事件の報に最も狼狽したのはこの奉行であった。腹心が「捕まったのはペドロ・デ・ズニガ神父のようでござる」とそっと耳打ちした時に、奇妙な叫び声を上げたという。二年前になる。日本潜伏中のズニガが捕縛された際、その縄をほどき、海外に逃がしたのは権六だった。計算あってのことだったが、伴天連への恩情が知られたら死罪は免れない。まして奉行の身、身内の連座さえ覚悟せねばなるまい。権六は囚人引見の際も終始〝知らん顔〟を通した。
 長崎代官・末次平蔵。
 祖父はフランシスコ・ザビエルから洗礼を受けた人物にして父興善こうぜんも有名な切支丹、という生粋の切支丹一族だが、平蔵は禁教令に従い棄教。1618年、長崎代官村山等安とうあんを「等安は切支丹であるばかりか、大阪の陣では豊臣を支援した」と幕府に訴え、村山一族を処刑に追い込み、代官のポストを手に入れた。権力を手にしたのちは〝長崎の切支丹迫害、教会破壊の全てに平蔵が関与している〟と言われるほどの最大の迫害者となった。そのため、切支丹には〝悪魔の使い〟と言われた。それと同時にオランダ、イギリス人からも忌み嫌われた。朱印船貿易商として蘭英と競合したからである。アジアの海に目を転ずれば、平蔵船は遠くベトナム、台湾へと乗り出し、巨万の富を築いた。蘭英船はこの朱印船が目障りでならなかった。それに加え、平蔵はポルトガル船に多額の投融資をしているので、経営上の南蛮派である。事件当初、保釈中の平山常陳を伴って江戸に行き、蘭英の海賊行為を幕府に訴えてもいるのだった。  
 地元の権力者は、つまるところ、平山常陳が勝っても、蘭英が勝っても、己が火の粉をかぶらなければ、己の懐が安泰ならばそれでいいのだ。己の後ろ暗い部分が幕府に露見せぬよう、肝を冷やしながら様子見を続けた。かくして真相究明はのらりくらり。誰もが二人の正体に気付いているのに、誰もが知らぬ振りをした。そして、当の囚人たちはいかなる拷問にも口を割らなかった。

 ヤックス・スペックスにとって、一縷の望みは将軍徳川秀忠であった。大量の貢物と共に使節団を幕府に派遣し、蘭英の正当性を主張した。
 ――南蛮船のみではございません。朱印船にも伴天連は隠れます。朱印船の海外渡航は危険でございます!いずれ、陛下の御国は著しく損害をこうむることでしょう。
「よく分かった。二人が伴天連である証拠を示せ」
 将軍はそう使者に命じた。〝公正な裁き〟は幕府の標榜する所である。その為には動かぬ証拠が是非とも必要であった。

 この年、将軍の切支丹嫌いを更にかき立てる本が著された。
 背教者・不干斎ふかんさいハビアン 註釈(11)が将軍秀忠に献上した『破提宇子はだいうす』である。デウス、つまり「キリスト教を論破する」の意味を持つ。イエズス会の論客であり日本一の説教師と謳われた日本人修道士ハビアンが――修道女と手に手をとって――イエズス会から出奔し、その後、幕府の依頼を受けて著した書物であった。それ以前にも反キリスト教の書はあったが、教会にいた人間だけに教義批判さえ試みた。また、イエズス会内部の小競り合い――高位につけるのは西洋人のみ。能力があっても日本人は神父にもなれない、というおそらくは彼の背教の動機となった人種差別への憤怒や、司教の座をめぐってマカオで銃撃戦まで起きたことがある、といった生々しい暴露話――は為政者たちの興味を大いにそそったことであろう。ハビアンは「宣教師の日本派遣は南蛮国が日本を奪うためである」と書くことも忘れなかった。
 驚愕したのはイエズス会である。イエズス会はこの書を「地獄のペスト」と呼び、直ちに禁書とした。
 一方、将軍秀忠の胸を怒りで焼き尽くすに充分であった。
 将軍は長谷川権六と平戸藩主に対し、
「なぜこれほど平山事件の決着に時間がかかっておる! あらゆる関係者を呼び、白日のもとで最終的な審判を下せ!」と厳命した。
 囚人の捕縛からすでに一年が過ぎようとしていた。

 ところで、オランダ商館長を悩ませたのは、表の闘争だけではない。〝影の暗躍〟にも見舞われた。
 日本から一掃されたはずのカトリック宣教師団の動きである。
 オランダ商館の地下牢を目指し、彼らによる囚人奪還作戦が繰り広げられたのだった。
 例えば、アウグスチノ会士バルトロメオ・グチエレスと切支丹一団が囚人奪還を試み失敗した第一次奪還作戦。
 例えば、フランシスコ会の会長サンタ・アンナらが一旦奪還に成功するも追跡され再捕縛された第二次奪還作戦。
 例えばドミニコ会士ディエゴ・コリヤード 註釈(12)らがポルトガル人からの義援金四百両でオランダ人従僕を買収して奪還寸前までいった第三次奪還作戦。その他小さな奪還作戦は数え切れなかった。

 十七人重役の前で、ヤックス・スペックスは紅毛派、南蛮派の錯綜する人間関係と、ヤックスが問題解決のために幕府にも奉行らにも多額の貢物を贈ったことやルソンにまで調査団を派遣し二人が神父である証拠を見つけようとしたこと、それに加え宣教師団の囚人奪還作戦に至るまで、事の経緯を綿々と、最初の弁明の倍の日数をかけて重役らに説明した。

「流れがどちらに傾くかは誰にも分らぬ状況でございました。商館の命運を考えますと、商館業務が滞ろうとも、優先順位は事件の解決が第一なのでありました」
「ふむ」
「で、結局の所、証拠は見つかったのだね?」
 ヤックスは「はっ」と頷いた。 
「証言できるという人間がようやく現れたのです!」

 それは一人の盲人であった。転び者である。ズニガ神父の声をはっきり覚えている。自分が証人になれると藩に申し出たのだった。
 藩主みずから家臣を伴いオランダ商館に知らせにきた。ヤックスはようやく潮目が変わり、自分達に光が差し始めたことを感じた。

「平戸の殿は〝オランダ、イギリスの勝利は固かろう〟と太鼓判を押して下さいました。そのため、私は離日を決意できたのです。クーン総督からはバタヴィア赴任を前々から命じられておりまして、その年の最終便が貨物の船積みを終え、まさに出航しようとしておりました」
 
 ヤックスは裁判の日を待たずに、その最終便にどうにかこうにか乗り込むことが出来た。
 そのため、以後の詳細をヤックスは知らない。後日バタヴィアに届いた新商館長の手紙で事件のその後を知ることとなった。

バタヴィア事務総長、ヤックス・スペックス殿

 バタヴィアにご栄転されてはや一年が経とうとしております。閣下におかれましては益々ご活躍のことと存じます。
 本日は平山常陳裁判の経過とその結末をお知らせ致します。

――1621年11月25日。
 平戸城奥の間にて「平山常陳裁判」が開廷いたしました。
 各界要人によるこれ程厳粛なる裁判に立ち会うのは、私にはおそらく最初で最後でございましょう。
 広い奥座敷の、その正面には平戸王松浦隆信殿、その隣りには裁判官の長崎奉行長谷川権六殿。その後ろには代官の末次平蔵、町年寄の高木作右衛門。更にその後ろには王と奉行の重臣らが控えております。この一角を占めるのは10名ほどでございましょうか。
 これら審判席に対面する位置に二人の囚人が座敷の中央寄りに正座しております。囚人の後ろにはポルトガル人と通訳ら10名程が一列に並んでおります。その中に、かのポルトガル婦人イザベル・ピンタがおり、紅一点の華を添えておりました。イザベルはしばしば宣教師の宿主でしたのでズニガをも見知っているに違いないとして呼ばれたのでした。
 審判席を右に見る形で廊下側に一列に並びましたのが私共でございます。右半分はイギリス商館長リチャード・コックスと職員達。左半分が私共オランダ商館の代表者。この列も10名ほど。
 私共に対峙する位置におりますのが、鈴田牢からこの裁判の為に引かれてきた三人の囚人―― 左からイエズス会士カルロ・スピノラ、ドミニコ会士フランシスコ・モラーレス、フランシスコ会士ペドロ・デ・アビラ  ーーでした。各修道会の代表者のような司祭でございます。日本人には分かりますまい。私共は彼らの略歴を知って騒然と致しました。殊に、カルロ・スピノラ。ジェノバのスピノラ家といえば閣下も御存知でしょう。彼は天文学者でもあり、禁教令以前は京都に天文台のあるアカデミアを作り大層な評判を呼び、天皇さえお忍びで見に来られたとか。それが、今やこの有り様。イタリアにいたならば枢機卿にものぼれた男が、煉獄日本で惨めなる狭小なる鈴田牢に縛られているのです。
 こうして、南蛮坊主と対峙する位置に座っておりますと、わが祖国ヨーロッパでの、旧教対新教の壮絶な宗教戦争の大波が、この極東の島国の、小さな港町の、城の一室にまで波紋のように流れてきたのだなと、一種の感慨のような、何とも言えない感情を催しましたが、この感情、閣下にならお分かり頂けることでしょう。

 こうして、城の奥座敷の四方に総勢30余名が座りました。みな緊張した面持ちです。日本人はかみしもに帯刀、外国人は母国の正装、その中に鈴田牢の襤褸をまとう三人、そして中央には打擲の跡も生々しき二人の囚人。くっきりとした明暗を成し、それがこの厳粛な裁きの場に重厚な陰影を与えておりました。
 翌26、27日にはこの広間に、かの〝転びバテレン〟トマス荒木が出廷いたしました。長崎の日本人と常陳船の乗組員たちも出廷しました。乗組員は平山船拿捕の不当を主張しました。
 28日にはイギリス人船長エドモンド・レニスが出廷し、拿捕の正当性を主張しました。

 この四日間、申し立てと質疑が粛粛と進む日もあれば、あたかも賭場とばのごとき怒声が乱れ飛ぶ日もありつつ、双方に決め手がなく、「二人は何者か」を明確にできるに至りませんでした。
 そして五日目となり、あの証人が登場したのです。
 盲人ルチオ。
 かつて、〝ミゼリコルディア(慈悲)の組〟の代表格でもあった男です。キリスト教の慈悲深さの象徴として長崎では知られておりました。しかし禁制後捕えられ、奉行所での拷問に耐えかねて転んだのです。棄教するや、お上にも信徒にも「ユダ」と呼ばれ、長崎から石もて追われたそうです。見えぬ目には仕事もなく、一家は泥水をすすり残飯を喰らい生きておったとか。褒賞金が最後の頼みの綱だったのでしょう。
 ルチオは役人に導かれて評定の場に出て参りました。罪人かと思える様な哀れな姿でございました。二人の囚人とお奉行との問答を隣室から耳をそばだてて聞いておったのです。
ルチオはお奉行の前に座らされると体を丸め深々と頭を下げ、こう申しました。

「へい。パードレのペドロ・デ・ズニガ様。ここにおられる方はズニガ様に間違いござらん」
「まことか?」
「まことでございます」
「ズニガと断言するわけを申せ」
 そう言われ、ルチオはじっと思案する風でした。つっと顔を上げると見えぬ目を開き、こう述べたのです。
「へい。お奉行様――。浦上ん
秘密教会でござった。告解こっかいん時でござります。おいが罪ん数々ばパードレに告解しました。そうすっと、こん耳に、静かに、〝アナタノ罪ハ赦サレマシタ。安心シテ行キナサイ〟と申された、そんお声でござります! また、別ん日でござります。秘密教会ん御ミサで御聖体ばくださる時に〝キリストノ体〟・・、そう耳元でささやいて下さったそんお声でござります! おいは目が見えんけん、声でパードレ様らば聞き分くるしかござらん。特に南蛮人は声に特徴がござっとよ。そん声、懐かしかぁズニガ様ん声じゃ。ほんにのぉ。ほんに・・」
 ルチオはガバリと畳に額づくと
「へい。
間違いござらん!」と申しました。辺りは静まり返りました。 
「ルチオよ。神に誓って・・・・・まことか?」
「へい・・神に誓って・・」
 盲人は畳がこすれるほど額づいたままです。
 それまで盲人をじっと見ておられた平戸王が、扇子で膝をポンと叩きました。辺りは静寂そのものですから微かな音も大きく聞こえました。平戸王が奉行に目配せすると、奉行は役人に向かって「あれを持て」と命じました。すると、役人が恭しく白い包みを運んで参りました。銀貨でありましょう。
 盲人はそのこんもりとした包みに恐る恐る両手を伸ばし、へい、へいと胸に押し抱き、罪人のように去って行きました。
 この証言が裁判を終結させました。

 その日、裁判の終了後、イエズス会士カルロ・スピノラは囚人二人に面会し、こう諭したそうです。
「正体を明らかになさいませ。あなたがたのお気持ちよく分かります。秘匿は船長と船員のためでございましょう。また日本の教会を思えばこそ。船員の運命も教会の運命も神の御心みこころにおゆだね申しましょう。今までよく耐えられましたな。さ、御準備なさいませ。栄光なる殉教の御準備でございます」
 翌日の30日。
 二人は宣教師であることを自白しました。
 一人はアウグスチノ会のペドロ・デ・ズニガ Pedro de Zuniga 神父。41歳。セビリア出身。貴族の出。父はノバイスパニア(メキシコ)の第六代総督。
 一人はドミニコ会のルイス・フロ―レス Luis Flores 神父。58歳。フランドル、ヘント出身。バタバグの天主堂の創立者。

 翌1622年8月19日(元和8年7月13日)。 
 二人の神父と船長平山常陳は長崎で火刑に処されました。二人が神父であることを知っていたのはヨアキム・ディアスの霊名を持つ平山常陳のみでしたが、船員十二名も斬首刑に処されました。彼らもまた全員がロザリオの組に属する切支丹でした。   
 同年9月10日(元和8年8月5日)。
 鈴田牢のスピノラら、あの三人を含む神父、修道士、切支丹、五十五名が長崎で火刑に処されました。長崎奉行長谷川権六が強行したと言います。権六は南蛮派だったと疑われぬよう、キリシタンへの残忍さを誇示する必要があったのです。
 これを切支丹は「長崎・元和の大殉教」と呼んでおります。切支丹は処刑日を「晴れの日」などと呼び、処刑地の西坂には大勢の民衆が―晴れ着を着て―その処刑を拝みに押し寄せたのでございます。陸からも海からも。その場面を絵師たちがまた競って描いておりました。げに恐ろしき狂信者共でございます。

 閣下も苦しめられた二年にわたる平山常陳事件はこうして、我々の勝利の内に幕が引かれました。   

  尊敬してやまぬ事務総長ヤックス・スペックス殿
  1622年10月22日 平戸オランダ商館長レオナルド・カンプス                   

その12 へ つづく