『サラ・スペックス、知られざる少女。』その12
第五章 父ヤックス・スペックス ーC スペックス再度の弁明ースペックス、平山常陳事件を語る➂
ヤックス・スペックスへの審判が下される日となった。
ヤックスは新妻の手料理で昼食を終えたあと、VOC本部へと向かった。
審判は午後からであった。
会議室のドアは開いたままで、重役らはまだまばらだった。
彼は一旦控室へと入り、名を呼ばれるまでゆっくり葉巻をくゆらすこととした。
――ああ、やれやれ、ようやく解放される。
感触は上々だ。ヤックスは葉巻の煙を口中で味わい、鼻で味わい、そして紫煙を静かに吐き出した。
天井に煙の雲がうっすらと広がっていった。
いわゆる無念無想である。全ての責務を終え、こうべを垂れて良き審判を待つのみ。
彼が再び葉巻をくゆらした、その時だった。
――あの地下牢はひどかった。
――あぁ、ひどかった。だが一番ひどかったのは・・。
――あぁ、一番ひどかったのは・・、あの日だ。
亡霊の声がヤックスの頬をひんやりと撫でた。
彼は身震いし葉巻を落とした。
そしてうずくまり、息をひそめ二人の亡霊が頭上を通り過ぎるのを待った。
1621年10月2日。元号で言えば元和七年。
ヤックスの個人的な体験である。
目の前に二人の囚人がいた。
地下牢から引きずり出された二人が縄で縛られたまま転がされていた。
江戸からは二人の自白はまだかという催促、商務員からは商館長じきじきの訊問をとの声がうるさかった。急がなければ、自白の前に二人は衰弱死するというのだ。
その日、ヤックスは重い腰を上げ、自らが訊問の場に立った。
イギリス商館長リチャード・コックスも職員数名を連れてやって来た。
「ふーむ」。ヤックスは二人をまじまじと観察した。
一人はまだ若い。三十代であろう。この男が宣教師ズニガであることは疑いがなかった。長く拘禁されながら、目の奥の光は強い。もう一人は老人である。長く伸びた頭髪も顎鬚も白い。目は落ちくぼみ、ぼろぼろの衣服からは小便の異臭が漂っていた。老人も宣教師に違いない。ルソンでは意気揚々と信徒の前で説教をしていたのだろう。何を好んでこの煉獄にやって来たのか。
「お前は宣教師ズニガ。そうだな?」
「No ・・No 」
「手荒なことはしたくないのだ」
「No ・・No」
「・・仕方あるまい」
ヤックスは下男に命じ、若い方の衣服をはぎ取らせた。そして、手首、足、腿を縄で縛り、聖アンドレア十字(X形の十字架)の形に台の上に括りつけてギリギリに締め上げさせた。囚人はうめいた。うめくたびに縄の間から血が滴り落ちた。その惨たらしさに職員らは顔をそむけた。
「水を運べ!」
幾つもの甕と大量の布が運ばれて来た。布で顔をゆるくぐるぐる巻きにし、首の所で布を絞め、大量の水をその顔に流した。ゲホゲホとむせても流し続けると、ヒーッと妙な声を上げ窒息しそうになった。布をどけて今度は腹を殴らせた。すると口からも鼻からも水に混じって血があふれ出た。
「お前は宣教師! そうだな!?」。ヤックスは知る限りの言語でたたみかけた。
囚人は血まみれの口を真一文字に結んだままである。
「鞭を当てろ! 」
アンドレア十字を解いて台から下ろされた囚人を下男が太い鞭でピシャリピシャリと打った。
――生ぬるい! こいつも切支丹か!
ヤックスにメラメラと怒りが込み上げてきた。彼は鞭を取り上げ、下男を蹴飛ばした。
「こうだ!」
と怒りに任せ、囚人めがけて鞭を振り下ろした。ビシリッ!
「Aa・・!」血まみれの囚人が「No !・・No !」とうめき声を上げた。
「No!・・ Yo no ・・soy sacerdote.Me・・ es mero・・ comerciante !」
スペイン語らしい。――私は宣教師ではございません。ただの商人、そんなことを言っているのだろう。
ヤックスは尚も鞭を振り上げ、振り下ろした。
――お前が吐けば! すべて解決する!
――俺の首もつながる!
ビシリッ!ビシリッ!ビシリッ! 倉庫に鋭い鞭の音が響いた。
その時、暗がりから小さく子供の声が聞こえた。「ユリ、かえろぅ、ユリ・・」「お嬢さま、しっ・・」
サラの声だった。
倉庫の柱の陰に商館の下男下女が潜んでいた。平戸人の多くが切支丹で、囚人を案じ物陰から窺っているのである。下女のユリもサラのお守りをしながら忍び込んだに違いない。
「見世物じゃないぞ! お前ら、出て行け!出て行くんだ!」
ごそごそと人の立ち去る気配がした。
再び倉庫に静寂が戻った。残ったのはヤックスとリチャード・コックス、そして両商館の職員達、囚人を含め西洋人のみであった。囚人は息を吹き返した。目を開き、その白い眼でそこに立つ男たちに目を凝らした。周りが全て西洋人だと気づいたようだった。囚人は口を動かした。かすれた声がこう聞き取れた。
「あなた方も・・キリストを・・信ずる者か?」
突然、燃えるような怒りがヤックスの腹から突き上げた。
「なんだと !!」
オーステンデ包囲戦の惨状が彼の脳裏を襲った。
――ローマ教皇の犬めが!
――叔父を、友を殺した犬めが!
ビシリッ!ビシリッ!ビシリッ! ビシリッ! ビシリッ!
「商館長殿、死にます!!」
雑用係フランソワ・カロン François Caron がヤックスを背後から抑え込んだ。
カロンが止めなければ宣教師は次の一撃で命を落としたであろう。カロンはヤックスが静まるまで腕を離さなかった。
――落ち着け、落ち着け!
ヤックスは自分に言い聞かせ、「くそっ!」と床を蹴り、鞭を投げ捨てた。
盲人ルチオが現れたのはそれから十日後のことである。
俺だって嫌だったさ。
ヤックスは転がった葉巻を靴で踏みつけた。
俺だって・・リチャード・コックスだってな。商務員らも全員が無言だった。各々が各々の背景を持ち、この島国に渡ってきたのだ。旧教国フランスから逃れた新教徒ユグノー。母方が熱心なカトリック一族の者。VOCに入るためにプロテスタントに改宗した者・・。誰がすき好んで極東の島国の、汚い倉庫の中で宣教師を打ちたいものか!
その年最後のオランダ船が平戸を離れようとしていた。総督クーンに「今年最初の船でバタヴィアに来るよう」命じられていたのにとうとう最終船である。平戸城での大掛かりな平山常陳裁判に立ち会う為、ひと船見送る事も出来たが、ヤックスは出国を急いだ。この陰惨な国から一刻も早く逃れたかった。
――どうともなれだ。
鞭打ちの日以来、ふとした時に―どうともなれ―の虚無の穴が彼の心にぽっかりとあくのだった。
平戸藩主松浦隆信は幾度もヤックスを慰留した。
「まことに平戸を去るのか?」
「殿。殿の御恩情、私ヤックス、一生忘れることはございません。殿の栄光と、平戸の繁栄を遠くバタヴィアの地から祈り、また、貿易におきましても藩のご利益を第一に考えまする。永遠の隣人として、わたくしめをお心にお留め下されば、私ヤックス、生涯の光栄に存じます」
「ヤックスよ」
藩主は再び言った。
「まことに平戸を去るのか?」
その顔には心細さが滲んでいた。長崎港が開かれて以来、平戸港からは往時の輝きが一旦消えた。南蛮商人が平戸から撤退したあと、オランダ人が再び平戸に黒船を率いれた。そのことを藩主は決して忘れなかった。無数の外国商人がいる中で藩主が最も信頼を寄せたのがオランダ商館長ヤックス・スペックスであった。
そしてもう一人、ヤックスとの別れを悲しむ者がいた。
妻の妙である。VOCは現地妻との結婚を認めず、まして赴任地への同伴など許さなかった。
――たえさん。
その名をつぶやけば、ヤックスの胸にはやさしさと、悲しみとが淡く広がっていく。
目立たぬ女だった。料理番が風邪で寝込んだ時にヤックスの私邸に遣わされたのだった。緊張した顔で食事を運び、部屋の隅でひっそりとヤックスの注文を待っていた。二日目もやって来た。その時に気付いたのだ。
――白い椿のようだな――と。
日本で初めて見た、艶やかな葉の奥に咲く白い花を連想したのだった。
器用には洋食を作れなかったが、妙の作る料理は彼の口に合った。彼は妙をそのまま私邸に住まわせ、自分の食事と身の回りの世話を任せるようになった。
一年後に誕生したのがサラだった。
生まれたての赤ん坊は危ういほどに小さく柔らかく、おくるみの中で淡く輝いていた。
「アンジュ様んごたる」「 Angel!」
まるで天使だ、と思わず二人で声を上げたのだった。
父が柔らかな頬を指で押すと、赤ん坊は乳首かと顔を動かし、蕾の口を開いた。
母が「おぉ、よしよし」と胸元に引き取ると、その顔を乳房にうずめてンクンクと乳を吸い始める。澄んだ目はとろんとなってゆっくり閉じていき、乳で満たされた体はほんのり上気し艶を帯びるのだった。
――異国でわが子を抱くことになろうとはなぁ。
ヤックスにはサラの誕生は奇跡に思えた。
仕事で疲れ果てた夕べも家に帰れば聖母子の満ち足りた光景がそこにあった。二人がいればもう何もいらない。そう思った。ヤックスは他の女たちを去らせた。
その妙との別れが近づいた。サラは4歳になっていた。サラはヤックスが引き取る契約だった。VOCは、バタヴィアの独身商務員の未来の花嫁として混血女児を必要とした。
いよいよバタヴィアへ船出する日が決定したある日、平戸藩主の館で盛大な送別会が催された。
「たえさん、一緒に行くかい?」
「お殿様ん所になんど」妙は首を振った。
「こん子とゆっくりすごしますけん」
「じゃ、行ってくるよ」
寒い日であった。妙はサラを抱き、玄関でヤックスを見送った。
二人を見ると、彼はいつも不思議な気持ちになる。オランダにこそ相応しいわが子が、このまま平戸で暮らせば、日本の娘として日本の風習の中で一生を終えるのだ。一度、サラを目にした藩主が「西洋の姫のようじゃ」と感嘆し、「甥の嫁にどうかのぅ?」と半分真顔で言った。このまま平戸に置けば、サラは武家に嫁いだかもしれない。ヤックスはぼんやりとそんなことを思った。
空から白いものがひらひらと落ちてきた。
「なんね?なんね?」。サラが聞いた。
妙は「めずらしかねぇ。雪ばい」と言った。
ヤックスが外に出ると、二人も玄関から出て見送った。ヤックスが振り返ると、淡雪の向こうに、いつまでも二人の姿があった。
翌朝、妙がいつものように台所で朝食を作っていた。サクサクと野菜を切る音、グツグツと煮物を煮る音、朝餉の香りもいつもと同じだった。妙は美しい手つきでコーヒーを淹れ、パンを焼き、果物の皮をむいた。途中、サラが寝ぼけ眼で母を探しに食堂に下りて来た。母に抱かれるとその腕の中でサラは再び眠りについた。夫がパンを頬張る間、妻はわが子の体をとんとんと叩いて安らかな眠りを与えていた。そして子を抱いたまま、夫を気遣っては、醤油を、ソースをと差し出した。
ヤックスは改めて妻の仕草の一つ一つに目をとめ、哀惜を覚えた。
彼はおもむろに「たえさん」と言った。
「はい?」
ヤックスはテーブルに白い包みを置いた。中にはスホルト銀二百テール(約四百万円)が入っている。現地妻への手切れ金であり、子を引き取る金だった。妙は沈黙した。そしてサラを抱いたまま、「そげなもん、引っ込めてくださりませ」と言った。「なんと悲しかことばい。お金なんど・・」
妙は着物の袖で涙をぬぐった。
「ヤックス様に大切にして頂き、私はほんなこと幸せでした。西洋のお料理が作れまっせんで、西洋の言葉もよう分かりまっせんで申し訳のござりまっせんこっでした。これでお別れになりますのが悲しゅうございます。・・・ばってんそぎゃんお約束やけん、仕方ばありまっせん」
妙は再び顔に袖を押し当てた。
「ただ・・サラとのお別れは・・。身を切らるぅごたる悲しみですたい」
妙はサラの寝顔を悲しげに眺め、その頬に口づけし、胸に抱きしめてさめざめと泣いた。
「こん子が日本語ば通じん異国でどぎゃんして暮らしていくんかと・・おまんまン好きな、お刺身ン好きなこん子がもう日本のお料理ば食えんごとなるかぁ思うと、可哀想で」
妙は濡れた顔をついっと上げた。
「ばってん、ご安心なされまっせ。デウスさまに全てをお任せすることに決めましたけん」
そしてテーブルの包みを押し返した。
「お金なんどいりまっせん。サラはお渡し致します。手紙も書きまっせん。ただ一つ」
「なんだい?」
「旦那様。・・ただ一つ・・。ポルトガル教会に通うんだけは許して下さりまっせ。バタヴィアの遠縁にサラの養育ば託しますけん」
「あぁ、いいとも」――最後の願いがそれか。ヤックスは苦笑した。
出航の日となった。
ヤックスと妙は最後の別れの時を過ごした。妙は薄化粧し、浅葱色の可憐な着物を着ていた。
ヤックスは白い包みに更に百テールを加え、「どうか受け取ってくれ」と言った。
「私も辛いのだ。できることならそなたも連れていきたい」
「はい」
妙は静かにヤックスを見上げた。妙の目から、はらはらと真珠のような涙がこぼれた。
――あぁ、白い椿。ヤックスは妙を、妙の匂いがしみつぐほど抱きしめた。日本の中で最も愛した女であった。
平戸の川内浦には既に日本の金銀銅を満載した「ズワーン号」がスペックス父娘が乗り込むのを待っていた。妙は姿を見せなかった。サラは晴れ着姿だった。振袖には手毬と菊や牡丹があしらわれていた。下女の崎津ユリが器用に髪を結い、かんざしまで刺して、雛人形の様に飾ってくれた。日本の子、混血の子が何人も集まり、サラはその輪の中心にいて振袖をヒラヒラさせたり、くるりと廻って見せては大人から拍手をもらったりしていた。フランソワ・カロン夫妻も見送りに来た。カロンの日本人妻は身重だった。サラはその腹に頬ずりして、「ここに赤んぼうのおると」と言い、まわりの子らもサラを真似てその腹に頬ずりした。
崎津ユリがサラを抱っこした。いよいよ乗船だった。
「サラさま、お元気で。サラさま、おなごり惜しゅうございます」
ユリはこれが最後と抱きしめたあと、ようやくサラを商務員に渡した。ドラが港に響きわたり、船が離岸し始めた。
ヤックスは平戸の十三年間を回想し、なつかしい家々、なつかしい人々に手を振った。
日本よ、さようなら。孤独な平戸の王よ、さようなら。
その時であった。
一人の女がふらふらと港を彷徨い歩くのが見えた。妙であった。さっきから母を船内に探していたサラが甲板で母の姿に気付き、「かあさま・・?」と船尾に走った。
「かあさま! かあさま!」
離岸の喧騒にかき消されながら、サラはあらんかぎりの声を挙げ、それに気づいた妙は、まわりが止めるのを振り払い、あぁ、サラよ、サラよ、と岸べりまで走り、髪を振り乱して、あぁ、サラよ、サラよ、と半狂乱になり、海に落ちる寸前でユリに抱きとめられた。
暴れるサラを商務員は離すまいとするがサラは泣き叫ぶのをやめない。ヤックスは修羅場に耐え切れず、「黙りなさい!」と怒鳴った。 サラはハッとして父を見、両の目からぽろぽろと大粒の涙を流したあと、声をのみこんで商務員にすがりつき、体を震わせて泣いた。ヤックスはサラを船室にさがらせた。
その夕方、彼が業務を終えて、船室に引き上げると娘は泣きはらした顔のままベッドに眠っていた。
――私も様々な犠牲を払ったものだ。
葉巻の香りも消えた。平戸時代を思い出すと頭の後ろが痺れたようになる。
「ヤックス様」
ベンヤミンが呼びに来た。ヤックスを見て一瞬たじろいだ。
「閣下、どうされました? お顔が・・」
「いや、何でもない。すぐに行く」
ヤックスは「さてと」と言い、踏みつけた葉巻を灰皿に捨て、居住まいを正して会議室へと向かった。
彼は会議室のドアを開け、一礼ののちゆっくりと顔を上げた。
にこやかな顔が揃っていた。
「ヤックス君、さ、座ってくれたまえ」
議長が椅子を勧めた。
「平山常陳事件が我々にはよく理解できた。今や日本の国王は朱印船のルソン渡航のみならず全面禁止を決めたとか。それもこれも貴殿の手柄」
ヤックスは「はっ」と頭を下げた。
「平戸オランダ商館はイギリス商館との戦いにも凱歌を上げました。リチャード・コックスは日本から撤退。それも私ヤックスの手柄と言わせて頂きましょう」
「ヤックス、恐れ入った」
「はっ」
ヤックスは頭を下げたまま清教徒ロベルト・ハンブルをちらりと見た。最後の難物。彼だけが不機嫌な顔つきである。
「ハンブル殿・・わたくしに尚も疑義をお持ちか?」
「・・・」
会議室は静かになった。実力者ハンブルの表情をみなそれとなくうかがっている。
――ははあ、この男、総督クーンと何かあったな。私をクーンの忠臣とでも思い、一度振り上げた拳を下ろせないでいるのだ。
――押しても駄目なら引いてみな、だ。
臨機応変、変幻自在は貿易商の得意とする所である。
ヤックスは最後に猿芝居を打つことにした。
「さて、日本にはハラキリという奇異なる習慣がございます」
全員が一斉にヤックスを見た。
ザビエル以後の宣教師はザビエルのようには日本人を過大評価しなかった。カブラル、ルイス・フロイス・・彼らの日本人評は辛辣なものだった。彼等が報告した日本という摩訶不思議な国 ――武士は男色にうつつを抜かし、尼寺は娼館であり、聖人を磔にし、キリストの聖画を踏ませる国――は西洋人の好奇心を刺激した。ましてキリスト教の大罪、自殺が称賛されるとはなんと奇っ怪な国であろうか。
「武士が不手際を起こした際、主君の命一つで己の腹を切り裂くのでございます。〝ありがたき幸せ〟と申しまして。それだけではございません」
ヤックスはハンブルにひたと視線をとめた。
「あらぬ嫌疑をかけられた際にも、このハラキリはしばしば行われ、雪辱を果たすのです。己の名誉を守るため!」
ヤックスは皆をぐるりと見やると、
「私もまたハラキリをお見せしましょう!」とやおら立ち上がり、腰から短剣を抜いて見得を切った。重役らの表情が凍り付いた。
「・・というのは冗談でございます」
笑いがどっと起きた。笑いは尾を引いた。それは長く及んだスペックスの弁明の終了を意味した。ようやく座が静まると、重苦しい会議室の空気が和らいでいた。
ハンブルさえ可笑しそうに笑っているではないか。
――勝った !
「失礼いたしました」
ヤックスは深々と頭を下げた。
「わたくしヤックス、すっかり日本人になってしまい・・」
まだゲラゲラ笑い続ける重役がいた。
「静粛に。どうか静粛に」
議長が円卓を叩いた。
「ヤックス・スペックス君。遠方での業務は我々の想像が及ばない。根掘り葉掘りの質問を許してくれ給え。我々の結論は、貴殿に業務上の失策は一切無いということだ。そればかりか、貴殿が日本国で挙げた業績には並々ならぬものがある。我々十七人重役会は貴殿の能力を充分に評価する。それが我々の裁定だ」
議長は厳粛な口調で締めくくった。
「これにて、ヤックス・スペックス殿に対する全ての審議を終了する ! 」
会議室が拍手で満たされた。そして重役らはヤックスに握手を求め、温かくねぎらった。
帰りしな、出口で議長が言った。
「ヤックス・スペックス、強運の男、君は申し分ない。バタヴィア総督の椅子も目の前だ」
そしてこう耳打ちをした。
「総督クーン、あれはちょっとやり過ぎた。モルッカ諸島の原住民を殺し過ぎた。陰で何と言われてるか御存知か?」
「ええ」
――バンダの殺戮者。
「クーンがアジアに返り咲いた事をイギリスが非難する。その声がうるさくてかなわん」
議長は再び握手を求めた。
「ヤックス、力の時代は終わった。これからは懐柔政策だよ。懐柔政策。バタヴィアで数年勤め、更にこのオランダを沈まぬ太陽にしてくれ。その後は美しい奥方とオランダに戻り、長い旅の疲れをゆっくり取るがいい。十七人重役会の椅子も夢ではないぞ。保証する」
そばにいた別の重役が、「ああ、我輩も保証しよう」と笑った。
ヤックスには思いもよらぬ未来だった。
十七人重役会!? オランダ貿易商の〝上がり〟。 いや世界中の貿易商の憧れ! 地位と名声、そして法外な報酬と安楽!
もう危険な航海とはおさらばだ。手を血で染めなくてもよい。幼児に頭を下げる必要もない!
ヤックスは、込み上げる喜びに、立ちくらみがした。
「嬉しいだろう。ははは。そうだろうなぁ」。議長がポンポーンと肩を叩いた。
最後に控えた清教徒ロベルト・ハンブルが大きく両手を広げた。
「神の恩寵は我々プロテスタントの上にこそ」と言い、ガッチリと抱擁してきた。
こうして、ヤックス・スペックスに対する審判のすべてが終了したのだった。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
波音がひたひたと耳に心地よい。
海のかなたにバタヴィア城の真珠塔がかすかに見え始めた。
マリア・オディリアが「あなた、お城、お城だわ」と言い、椅子から立ち上がった。
ヤックスも立ち上がり、マリアの肩を抱いて共に爽風に吹かれた。
バタヴィアはもう目の前であった。