『サラ・スペックス、知られざる少女。』その13

病室の少女

第五章 父ヤックス・スペックスーd スペックスの帰還

病室の少女

ると、二人の視線の先に小型船が現れた。
 高浪を響かせ、ぐんぐんと近づくその船は快速船であった。
 ヤックスは微笑した。
 ― 気が早いな。結婚のこと、とうに知られていたか。
 船が横付けされ、バタヴィアの部下達が乗り込んできた。
 二人は祝辞を受けるため、笑顔で彼らを出迎えた。

「閣下!」
 馴染の部下フレデリックであった。
 彼はマリアには一瞥もくれず、ヤックスの足元に片膝でひざまずいた。

「閣下!」
「どうした・・。なにごとかな?」
「大きな事件が二つ起きました!」
 ヤックスの顔が曇った。マリアは心配げにヤックスと部下とを交互に目で追った。
「先発隊の『バタヴィア号』が、潮流に流されまして、遠方で座礁し、多くの犠牲者を出した模様です!」※註釈(13)

 ヤックスの足元から寒気が立った。― あのバタヴィア号が! 私達が乗ろうとしていたあのバタヴィア号が!
   ヤックスは妻の手を握った。妻は握りかえし、更に肩を抱き合った。心痛と安堵が複雑に入り混じった抱擁だった。
 フレデリックはスペックスの足元に跪いたまま顔を上げようとしない。

「フレデリック。二つ目は?」
「はっ」
 フレデリックは、更に深く頭を垂れた。
「閣下、どうか、驚かれませんように!」
「言え」
「・・・」
「どうした。 言え!」
「はっ」
 フレデリックはゆっくり顔を上げた。
「サラお嬢様に・・刑が執行されました!」

 ヤックスにはその意味が分からなかった。刑とは? 刑が執行されたとは? 娘に何が起きたというのだ。
 ヤックスの顔がみるみる蒼白になった。
「マリア、ここで待っていてくれ」
 ヤックスは部下と船室に入った。

 フレデリックが一部始終を話す間、ヤックスは頭を抱えていた。男と寝台で発見された? 公開処刑で男は斬首、サラは鞭打ち?
  正常に息ができるのに時間がかかった。
 フレデリックは無言で上司の次の言葉を待った。
 沈黙ののち、ヤックスは絞り出すような声を出した。
「言ってくれ。・・娘は今、・・どうしてる?」
「入院しておられます」
「命は?」
「峠は越されました」
「そうか・・。して、クーン総督は?」
「亡くなられました」
「亡くなった !?」
 ヤックスの顔にまた苦痛が走った。
「公開処刑を終えますと、総督はマタラム軍討伐に向かわれました。最後の攻防は・・ひどい闘いでございました。マタラムとイギリスの連合軍は第一次包囲戦惨敗の後、格段に戦闘能力を上げました。わが軍は大砲の弾も尽き、銃弾も尽き、総督は人糞を大砲に詰めて敵陣に打ち込んだのでございます。じきに敵陣に疫病が蔓延し、ようやくバタヴィアから撤退致しましたものの・・」
「・・・」
「その直後、総督も又倒れたのでございます。同じ疫病にやられたのだとも熱病だとも言われ・・」
 一番の風評は、七つの悪鬼あっきに憑かれたサラの生霊いきりょうに呪われたというものだったが、それは伏せた。
「そして、・・スペックス様御帰還の報を受けたのち、病状が急変し、お亡くなりになられました。一昨日のことでございます」
「なんという事・・・」

 マリアは海を眺めていた。
 朝の晴天とは打って変わって雨雲が天空を覆い出していた。ジャワ島が雨期に入る前触れであった。
 ヤックスが甲板に戻って来た。
 夫はこう言った。― 真相はわからない。何か総督クーンの逆鱗に触れ、娘は瀕死の重傷を負ったのだ ―と。
 いきなりとおもふけ込んだような、初めて見る夫の憔悴した表情だった。 
 新妻はこんな時夫にかける言葉をまだ知らなかった。

 ヤックスは副指揮官にあとを託すと、妻と共に快速船に乗り換え、慌ただしくバタヴィアに上陸した。
 新妻は大地から湧き起こる蒸し暑さに一瞬ひるんだ。 ― これが赤道直下の・・バタヴィアの大気!
 市街地は第二次バタヴィア包囲戦の戦禍をとどめたまま、総督クーンの葬儀の準備に大わらわだった。
 商務員らはヤックスに気付くとはっとしたように頭を下げ、そそくさとその場から離れるのだった。誰もがあの処刑の目撃者だった。
 二人はサラのいる病院に急いだ。そこには傷痍軍人らがひしめいていた。フリデリックは二人に「感染が危険ですから」と手巾ハンカチで口と鼻とを抑えるよう言った。

 病室は二階の奥であった。ドア脇の椅子に着物姿のトシが座っていた。トシは遠くからヤックスをみとめると立ち上がった。
「旦那様!」
 トシは廊下を駆ける途中でハラハラと涙を流した。そして体が折れ曲がる程頭を下げた。
「お許し下さい!」
「お前のせいではない」
「どうか・・どうか・・旦那様!」
「もう言うでない。無事なのか?」
「・・何と申して良いのか・・今も・・」

 暑いのに窓も開いていない。蝿が傷口に卵を産み付けないよう、二階の窓を全て閉じているのだという。
  ―― 一週間昏睡状態で、その後の一ヶ月は傷口が膿んでお苦しみになり、食べ物を口に運んでも一口二口食べては嘔吐し・・、治療にはなお時間がかかると医師が申しております――トシはそう言った。

「フリードリヒはどこに?」
「フリードリヒ様は・・」。そう言うと、トシはうつむいた。
「まさか・・死んだのか?」
「・・・・」。トシは無言のまま涙を流した。
 ヤックスは絶句した。
 総督クーンの影武者にして守護聖人。サラの教育係。あのフリードリヒが!
 私がオランダに行く時はサラと手をつなぎ、船出を見送ってくれたではないか。波止場で髪をなびかせていたフリードリヒの最後の姿が脳裏に蘇った。
「総督が倒れますと、疫病が疑われ、誰も病室には入りたがりませんでした。二番目のお子をお産みになられたエファ様は尚のこと・・。あの方だけでございました。朝な夕な総督のおそばで風を送り、額を冷やし、パンがゆをお口に運び・・」
「そうであったか」
次期総督候補者ともあろう人間が、その場にしゃがみこんでしまった。
バタヴィア帰還と同時に襲って来た幾多の衝撃が、フリードリヒ・ブルーフの死によって飽和点に達したかのようだった。
トシは、「旦那様」と言ってヤックスを抱く様に膝を折った。
「すまんな」
「船旅でお疲れでいらっしゃいますのに・・」
「聞かせてくれ。二人の最期を」
「・・・」
 トシは低く語り出した。
「クーン様の最期でございます・・・。病室にお抱えの牧師様が到着されました。牧師様はおっしゃいました。〝神に詫びる罪がありましたら最後に懺悔を〟と。総督は息も絶え絶えの中、〝あぁ、わが神よ〟と敬虔な表情で申されました。〝あぁ、わが神よ。私は教会の戒律をいついかなる時も守りました! 私は罪を犯したことがございません ! 〟と。そして、いまわの際に〝バチスタは、バチスタはどこだ!〟と、寵臣の名をうわ言のように口にし、フリードリヒ様は涙を流し、〝もうすぐいらっしゃいますよ。バチスタ様はもうすぐ〟とおっしゃいました。それを聞くと総督は微笑み、そしてお亡くなりになりました。その総督を追うようにフリードリヒ様も・・・。感染したのです。それゆえ、お二人とも火葬に・・。火葬場の煙はまだ消えておりません」

 マリア・オディリア・バウスは夫の後ろで二人の会話を聞いていた。夫が、娘の元に行くべきか、行かざるべきか逡巡しているようにも感じた。男親にはきつかろう。マリアの体が自然に動いた。目で〝私が参ります〟と言い、夫の肩を優しく抱いてから、廊下の奥の病室へと向かった。
 病室のドアを開けると、すえた匂いがした。子供の召使い二人が団扇で寝台をあおいでいるところだった。二人はマリアを見ると慌ててお辞儀をし、後ずさった。マリアは「そのままで」と二人に言った。
 サラは捨てられた人形の様に横たわっていた。マリアは静かに少女のそばに跪いた。
 ――これが私の娘。
 そこに眠る少女は、想像とは何もかもが違っていた。落ちくぼんだ目蓋、痩せた頬。血の気もなく、屍同然に見えた。
 ――これがバタヴィア城の姫。
 乱れた髪の毛にそっと触れると、少女の口が小さく開き、「カ・・カ・・」とつぶやいた。耳を近づけると「カァ・・サマ」「カァ・・サマ」とかすかに聞き取れた。マリアは、誰か大切な人を呼んでいるのだろうと思った。憐れであった。
 ふと窓ガラスを見ると、そこに、きらびやかに着飾った西洋の女が映っていた。
 ルビーのイヤリング、ネックレス、手首に巻き付いた宝石。薄暗い病室には何とも不似合いであった。
 マリアはイヤリングを外して卓上に置いた。そしてネックレスを外し、手首の宝石も外した。
 マリアの心に不図こんな言葉が湧いた。――バタヴィア城の后。社交界の華。ルビー、ダイヤモンド。・・そんなものは捨てよう。
 マリアは飾るものの何もなくなったその手で、サラの寝顔に触れ、髪の乱れを丁寧に整えた。
 少女はまた小さく口を開き、「カ・・カ・・」とつぶやいた。
 マリアの頬に一筋の涙が伝って落ちた。

 この夜、次期総督候補者ヤックス・スペックスと妻マリアは、院内感染を恐れ、秘かに娘をバタヴィア城へと運んだ。

 

 

 

  
その14 へ つづく