『サラ・スペックス、知られざる少女。』その16

若きレンブラント

第八章 レンブラント若きレンブラント

 

 

 

 

 

1656/7/25,26付
『レンブラント家破産に伴い、ハ-グ高等裁判所に提出された レンブラント家財産目録』 全363品中、〝美術陳列室〟に並ぶ品番138~178中

   品番(138) 地球儀二点
    〃  (143) 東インド(亜細亜)製の茶碗二個
    〃  (146) 東インド(亜細亜)製白粉箱
    〃  (158) 日本の兜

 1633年3月。
 朝から玄関が騒がしい。

「旦那様!旦那様!」
 女中ルイズが、居間へバタバタと靴音を立てて入って来た。
 執事が眉をひそめる。ルイズは、また叱られる、と首をすくめながら、「ご注文のお品を届けに、皆様が、いらっしゃいました!」と元気がいい。マリア・オディリアは、バタヴィア時代のニラムやマルガのような明るい女中が好みである。
「応接間にお通ししてくれ。暖炉に急いで火を入れて」
「はいっ。かしこまりました!」
 またバタバタと靴音を立てて、応接間へと駆けて行った。この広い屋敷にはあと二人ぐらい女中が必要だなとヤックス・スペックスは思った。マリアは「楽しみだわ」と言ってヤコブスを抱き上げ、ヤックスに続いて応接間へと入った。
 一人の青年がツバ広のフェルト帽を胸に当て、深々と頭を下げた。
「お持ち致しました」
 レンブラント・ファン・レイン。新進気鋭の画家である。
 若くして既に工房を構えている。徒弟の二人が、布で覆われた絵を持ったまま、恭しく礼をした。
 長かったアジア勤務を終え、ヤックスはやっと本国に戻ることが出来た。荷を解いて間もないので、家具の配置さえ定まらぬ状態だが、応接間に絵を飾る空間だけは確保した。徒弟らが作業する間、ルイズが紅茶と菓子とを運んできた。
 マリアが画家に勧める。
「ラピス・レギット。バタヴィアの珍しいお菓子ですの。召し上がって」
「恐縮でございます」
 ケーキの生地とナッツやドライフルーツを砕いた物とを幾層にも重ねて作った焼き菓子である。画家は銀のフォークでつまむと「ほう」と言ってしげしげと眺め、口に放り込むと、「こりゃ、絶品だ」と言ってまた一切れ口に放り込んだ。マリアはにこにこと若者を見ている。
「レンブラントさん」
「はいっ。奥様」。口をもぐもぐさせている。
「どのような絵ですの」
「『エウロペの誘拐』。ギリシャ神話に着想を得ました」
「どんなお話だったかしら」
「それは・・」
 画家は、口一杯の焼き菓子を紅茶で流し込んだ。
「西アジアはフェニキアの姫、エウロペの物語でございます。姫が侍女たちと海辺で遊んでいますと、白い牛が近づいて参ります。牛はゼウスの化身でございまして、姫は好奇心から牛の背中に乗ってしまうのです。その途端、牛は姫を略奪し地中海のクレタ島へと連れ去ったのでございます。連れ去る際に欧州中を駆け回ったため、その広大な地がエウロペ(ヨーロッパ) と呼ばれるようになった、そのような神話でございます」
「あぁ、そのお話・・」
「東西交易の立役者、すなわち、大航海の勇者であられるスペックス閣下にふさわしいかと」
 マリアは、まぁ、と笑って夫を見た。
「レンブラント君。君は絵もうまいが、口もうまい」
「本心でございます」
 陽気な青年である。貿易商にしたい位だ。
 クシュン、クシュンと一歳のヤコブスがくしゃみをし出した。真夏から真冬へと移動したのだ。大人でさえ体にこたえる。マリアは何枚も何枚もヤコブに重ね着させ、ヤコブスは小さな雪だるまの様になり、それでも気が付けば鼻水を垂らしている。「あらあら、坊や、お部屋に戻りましょうね。レンブラントさん、絵の方はあとで拝見しますわ。どうぞごゆっくり」
 そう言って母と子は別室へと消えた。
 画家は後ろ姿を見送ると、「美しい奥様ですね」と言った。
「自慢の妻です」
「ええ」
「ははは。まあ、彼女には苦労をかけました。想像もつきますまいなぁ。ここが氷の国ならば、かの地は炎の国。千金に値する香辛料(スパイス)がその炎の中でしか手に入らないときている。因果なものです。全く過酷な土地でした」
「お察し致します」
「北欧の光に慣れた目には、バタヴィアの光は目を突き刺す。君など、いっときも目を開けてはいられないでしょう」
「おぉ、それは恐ろしい」
 レンブラントは大袈裟に首を振った。

 アムステルダムでは画家に肖像画を描かせるのが流行していた。特に十七人重役達は名声の象徴として競うように肖像画を描かせた。
 かつてマリアの肖像画を仕上げた画家のラヴェステインは王室からの注文に専念し出した。そこでヤックスは、最近評判の若者、レンブラント・ファン・レインに絵を注文してみようかと思いついたのだった。
 絵はヤックスにとって、名声の象徴ではない。一種の願掛がんかけであった。オランダに何としても帰るのだ。アムステルダムに屋敷を構え、応接間に立派な絵を飾る。それを見るまで死ぬものか。そんな執念を込めた願掛けであった。

 二年ほど前になる。一時帰国した折りに腹心ベンヤミンと共に画家の工房を訪ねた。
 工房には二組の先客がいた。既に売れっ子らしい。ヤックスの訪問は伝えており、画家は、二人を見ると、先客を放り出して飛んできた。
「東インド総督、ヤックス・スペックス閣下!」
「お邪魔するよ」
「お待ちしておりました!」
「これを」と言ってヤックスは画家に手土産の包みを渡した。三枚の和紙である。世界の文物を知るヤックスにとって、和紙は〝紙の中で最上の品〟である。
「おぉ、これは・・何とも珍しい ・・美しい紙・・。恐縮でございます。・・さ、閣下、ごゆるりと絵をご覧下さい」
 一通り、工房の絵を眺め、ヤックスはその画業に満足した。
「どうだね、何か描いてはもらえまいか」
 レンブラントは胸に手を当て「喜んで」と言い、「肖像画でございますか」と聞いた。
「いや・・、もっと何か壮大な」
「壮大・・」。画家はしばし考えた後、「閣下のお話、お伺いできませんか。本日は大航海のお話を伺うのを楽しみにしておりました」と言った。
「興味がおありかな」
「人の十倍も」
 軽妙洒脱な画家であった。ヤックスはモルッカ諸島を舞台にした香辛料(スパイス)戦争の、その上澄みの話をし、遙か日本にまで持ち込まれた新教VS旧教の争いの、その上澄みの話をし、画家は「ほう、ほう」と食い入るように聞いた。彼はこの、目をギラギラさせて好奇心丸出しの若者相手に、異郷での波瀾万丈を語って飽きることがなかった。平戸には日本人妻がいたと口を滑らせると、「女人の体も黄金でございましたか?」などと軽口をたたいた。小さく、「いかにも」と言ってやった。女との間に一人娘がいた事も話した。「蘭日の混血のお子を見た事がございません。可愛らしいお嬢様でございましょうね」。「いかにも」。彼は笑いながら頷いた。
 話はバタヴィア号事件に及んだ。事件はオランダでもよく知られていた。「私はその船に乗る予定だったのだよ。急用ができて乗らずに済んだ」。画家は目を丸くして驚いてみせた。
「大海に出れば信じがたいことが次々に起きる。・・あれは、フィリピンの西の沖だった。凄まじい大嵐の日に、白い龍が天に駆けのぼるのを見たよ」
「船が転覆寸前の時は、きまって巨大な蒼白い馬が船内を駆け抜けるのだ。それも一度、二度、見たことがある」
 画家は一つ一つを頷きながら聞き入り、想念の渦の中に吸い込むかのように、無数のエピソードをヤックスの中から引き出していった。
「あれは・・日本からバタヴィアへ向かう時だった・・。娘と乗った船が大嵐に襲われた。船が右へ左へ倒れるほど傾き、帆を畳もうにも船員が甲板まで行けないのだ。私は決死の覚悟で甲板に出て、帆柱(マスト)にのぼり、嵐になびく帆を命がけで畳んだのだよ。娘を死なせちゃならないと必死でね」
「偉業の陰には大変なご苦労が・・」
「いやいや」
「死を賭して西洋の品を東洋へ運び、東洋の品を西洋に運ぶ・・これぞ地球規模のお仕事。総督は大航海の勇者でございます」
 更に、「今日のオランダの繁栄も、総督閣下のおかげ。繁栄あればこその絵描きでございます」。そう言って、ヤックスを気持ち良くさせた。ベンヤミンによると、この画家はイタリア画壇など歯牙(しが)にも掛けないらしい。アムステルダムで世界一の画家になると豪語している。剽軽(ひょうきん)に見えて、その目の奥に、己の才能への驕慢な自負心と、強烈な野心とが見え隠れした。
 ヤックスはこの野心家を大いに気に入った。
 レンブラントは最後に「閣下。ある画題がふと浮かびました」と言った。
「私にお任せくださいますか?」
 ヤックスに異存は無かった。

 そして完成した絵が今日運ばれたのだった。
 ようやく、絵が壁に収まったようだ。レンブラントは、最後に、絵に近づいたり、遠ざかったりし、傾きを細かく調整すると「これで良し」と言って振り向いた。
「閣下。ご覧下さい。いかがでございましょう」
 ヤックスはソファに座り直し、ゆっくりと絵を眺めた。

エウロペの誘拐

 『エウロペの誘拐』※註釈(15)
 やや横長の大窓ほどの大きさである。全体が薄茶色で落ち着いた雰囲気だ。夕焼けがフェニキアの海辺を照らし出している。その明るさの中で牛が姫を奪い去る瞬間が描かれ、岸辺に立ち尽くす母と、手を挙げて叫ぶ下女たちの姿が描かれていた。
 そして、視線が主人公のエウロペ姫を捉えた時、ヤックスは激しい衝撃を受けた。
 そこにいたのは四歳のサラだった。 

 間違いない。その目元、ふっくらした頬の感じ。あの日のサラであった。
「かあさま!かあさま!」。サラは声を限りに叫んでいた。
 ふらふらと港に現れたたえは、狂ったようにサラの名を叫び続けた。
「サラよ。ああ、サラよ。サラよ!」

レンブラント・エウロペの略奪

―ああ。
 ヤックスはソファに体を沈め、左手を額に当ててうつむいた。泣いたのである。
 沈黙の時が流れた。画家も黙したままだった。
 この男に、河内浦での別離を一言でも喋ったか?いや、喋ってなどいない。しかし、目の前にあるのは確かにあの日の光景だ。長い年月、封印してきた光景が、今、目の前に現れたのだった。
―この画家は・・・いったい何者?・・。
 ヤックスは畏怖の念から、ぶるっと身震いした。
「失礼。さまざまな思いが去来し・・」
 画家は無言で頷いた。
 また涙がこぼれそうになったがこらえた。そばにマリアがいないことがせめてもの幸いだった。
「参りました。レンブラント君、すっかり参りましたよ。素晴らしい絵だ」
「恐れ入ります」
「何とも言いようがない」

 心に飛来するのは〝贖罪(しょくざい)〟という言葉だった。妙への贖罪。サラへの贖罪。あのまま平戸に置けば・・・サラは・・鞭打たれる事も無く、牧師と未開地を夢見る事も無かった。今頃は日本の娘として松浦藩の武家にでも()していたかもしれぬ。平戸の殿は骨を折って下さっただろなぁ。・・いやいや、言ったとて今更何になろう。()摂理を人間が抗えようか。

「あなたに何か差し上げたい」
「閣下、めっそうもございません。充分なお代を頂戴しました」
「ちょっと待っていてくれ」
 ヤックスは執事に命じて書斎から一抱えの桐箱を持って来させた。
「以前差し上げた日本の和紙・・使い心地はいかがだったかな?」
「はい!銅版を刷らせて頂きました。実にくっきりと仕上がりまして・・。信じがたい品でございました!」
「これは、前回の物ともまた風合いの違う、極上の和紙だよ。どうだろう。さぁ、見て、触って。さぁ」
 画家は手を合わせた。「触っても宜しいですか?」
「さぁ、さぁ」
 書斎用にバタヴィアから運んだ和紙であった。
 画家は、桐箱から和紙を一枚取り出し、そっと表面を触り、そして裏を触り、日に透かすと魅せられたように眺め続けた。
「君に差し上げよう」。画家は首を強く振った。
「めっそうもございません!」
「君に上げたいんだ」
「あぁ閣下・・・。まことに? まことに宜しいのですか?」
 彼の喜びようは尋常ではなかった。まるで金銀財宝を手に入れた海賊のような様子で桐箱を持ち帰っていったのだった。※註釈(16)


 屋敷がようやく落ち着いた頃、―その年のうちに―スペックスは再びレンブラントに絵を注文した。
『エウロペの誘拐』の倍の大きさの絵を注文したのだった。

  その17へ つづく