『サラ・スペックス、知られざる少女。』その17
第九章 二人―a 熱蘭遮城
カンディディウス牧師とその妻は、雨季のモンス-ンが過ぎ天気が好転するまで、教会脇にある二つの小さな部屋を住まいとすることにしました。
その後、牧師が台南安平に残ることを望まないようであれば、総督の指示通りに別の住居が新港社(社=村落)に建てられます。
1633年7月9日 ―ラモア島沖に駐留の艦隊司令官らより、 総督ヘンドリック・ブル-ワ-宛の書簡
『FORMOSA UNDER THE DUTCH』P111, lettter15
1633年6月。
突然の驟雨。
サラとその夫が商船から台湾に降り立った途端、派手な驟雨が二人を見舞った。夫は脱いだ上着を妻の頭上にかざし、二人で雨の中を走った。空気が美味しかった。雨が気持ち良かった。走っている内に笑いがこみ上げてきた。
「ひどい歓迎だなあ」
「ジョルジュ、もうびっしょりよ」
二人は台南安平の牧師館に駆け込んだ。VOC台湾支部、熱蘭遮 城内の牧師館である。
商務員が二人を待ち受け、部屋へと案内した。十数人の荷役が二人の荷物を牧師館へと運び入れる間、サラは奥の部屋で濡れた髪や手足を拭き、洋服を着替えた。ジョルジウスは、サラがいつの間にか、一人で身なりを整えていることにある感慨を覚えた。蝶々結びさえ出来なかったサラだった。
去年、結婚の日取りが決まった頃、ジョルジウスは婚約者にこう語った。自分の使命は、主の御言葉を生きることであると。私が主の僕であるように、貴女も又、主の婢 となってほしいと。
サラは3人の付き人と、7人の召使いを手放した。
幼馴染のように育ったニラムとマルガは継母マリアと赤ん坊に譲った。二人はヤックス・スペックス一家がオランダに帰る迄の半年間、マリア母子に仕えることとなった。4歳のサラがバタヴィアの港に着いたその日から世話をしてきたトシには後の生活に困らぬ充分な金品がスペックス家から与えられた。トシは挙式の朝、サラに花嫁衣装を着せ、ヴェールを冠らせた。そして数歩さがり、その純白の姿を眼に収めると惚れ惚れとして「まっこと美しかねぇ」と言った。これでトシの最後の仕事が終わった。
サラは挙式の翌日から、自分の事は自分でするように努めた。牧師館にも使用人はいたが、バタヴィアを去る日のため、掃除を覚え、料理を覚えた。衣類のほころびを繕うのは意外に得意なことを知った。和刺繍に習熟したお陰だった。サラは夫の黒い祭服を初めて一人で縫ってみたりもした。
人の手を借りずに衣食住取り仕切るのは思ったほど難しくはなかった。難しかったのは、それまでの灰色のヴェールの世界から、急に明るい世界に引き出され、そのうえ牧師夫人として半ば公の生活を強いられたことだった。
バタヴィア市民のサラに対する好奇心は、あの挙式の日に終息しなかった。列席が叶わなかった人々がサラを一目見ようとした。カンディディウスが勤務する教会に〝信徒達〟が〝礼拝に〟引きも切らずにやって来た。夫は、中央の教会から町外れの小さな教会に異動を願い出て受理されたが、そこでも二人の生活は信徒達によってしばしばかき乱された。次第にサラから笑顔が消えていった。
カンディディウスのもとに台湾長官ハンス・プットマンス Hans Putmans から手紙が頻繁に届くようになったのはその頃だった。意見の対立から牧師を台湾から去らせた張本人である。
「私共は、お互いを理解するために時間をかけて対話すべきでございました。私は今、牧師様に心からお詫び申し上げます」
「牧師様がこの地を去られてから、原住民が不穏な動きを起こし始めました。願わくば、いま一度台湾に戻られます様に」
「台湾評議会はあなた様のご要求 ―給与の増額その他― を満額回答いたす事を決定致しました。どうか、台湾布教にいま一度、いま一度着手して頂けます様に。原住民の魂の救済はカンディディウス様の手にかかっております」
牧師が給与の増額を要求したのには理由があった。彼の給与は上級商務員と同程度であったから、薄給とは言えないが、危険を伴う未開地に拠点を作るに際し、多くの現地人の雇用費、仮小屋の建設費、日々の食材の調達から布教に出かける費用等々、日々想定外の出費があった。布教が進み、5人、10人と求道者が現れれば客間も必要となり、首長の元に赴く際にはしかるべき土産が必要となった。長官が宣教費の増額に応じなかった為、牧師は自分の給与で補填せざるを得なかった。今回、再雇用にあたって、台湾評議会は牧師の要求を全て呑むという。
再三にわたる長官の手紙は、牧師の宣教熱をかき立てはしたが、実際、彼の背中を押したのは、サラをこの地から救い出さねばとの思いだった。彼は長官の要請を受諾することにした。
こうして、翌1633年、二人は台湾へと船出したのである。サラにとっては、平戸からバタヴィアに渡って以来12年ぶりの船出となった。そして、新天地に降り立ったと同時に驟雨にお見舞いされたのだった。
この時、同じ驟雨を城塞の窓から眺めている男がいた。
バチスタ・デ・ブリエ Baptiste de Briey 。
総督クーンがいまわの際に「バチスタはどこだ」と、見えぬ目で探した、あの男である。彼は総督の最期の言葉など知る由もない。彼が知ったのは、第二次バタヴィア城包囲戦の最中、総督が疫病で急死したことと、養女サラ・スペックスに呪い殺されたという風評。そして、フリードリヒ・ブルーフが総督と共に死んだこと。それだけだった。
―そうであったか・・フリードリヒ・・最後に総督が伴ったのは彼。
バチスタはフリードリヒの一度見たら忘れられぬあのジャワの血の混じる不思議な横顔を思い起こし、二つの魂が共に天国の門へ入ることを祈った。そして顔を上げた時には、頭からこの出来事は振り払われていた。彼は過ぎ去った事に執着しなかった。
バチスタは5年前、総督の執務室でフリードリヒとは別の使命を受けた後、バタヴィアを去り、アンボイナ島、バンダ諸島を蘭軍を引き連れ巡回し、調査と島民の徹底支配と、スパイスの収穫量倍増の取り組み等々、総督の全権大使として出来る限り全てのことを行った。バタヴィア以外の東南アジアの領土全てを見回り、一巡二巡すること5年に及び、様々な経験と討伐を経て貫禄も備わった。東インド派遣の商務員の平均余命が3年という中、この強靭さはヤックス・スペックス同様、彼もまた「強運の男」と言う他はない。
その業績を認め、VOCは彼に大佐という位階を与え、陸軍、海軍を統率する軍の総司令官として、台湾に送った。台南安平にはカンディディウス夫妻より半年前に到着していた。
夫妻の到着するこの日、彼は居心地の良い総司令官室で、長官プットマンスに台南支配の経緯を改めて教示されていた。
「台南支配の経緯」という年表の冒頭には、
―台南を植民地とするに至ったのは1622年の総督クーンの指令から始まる。― と書いてあった。
年表の要点をまとめるとこうだ。
クーンの指令はまず、ポルトガル領マカオを手に入れることだったが、ポルトガル軍の反撃を受けて失敗。 膨湖 島に退くが、今度は中国軍に攻撃され、更に台湾へと退去。台湾には国家組織なく、且つ、どの国の支配も受けていない事が幸いした。
1624年、台南安平に 熱蘭遮 城を築城。台湾植民地経営を開始する。以後4年間は敵の動きが活発化し、対応に追われる年が続く。敵とは、日本人、スペイン人、中国人海賊(殊に 鄭 芝龍 )である。
1627年、G・カンディディウス、来台。任地の 新港 で土地及び原住民を調査。
1628年6月、タイオワン事件(高田弥兵衛事件)勃発。10月、テクセル号事件(鄭芝龍との衝突)勃発。
1629年6月、麻豆渓事件勃発。11月、台湾政庁と麻豆社との和平協議開かれる。(仲介=G・カンディディウス)。
1630年1月、麻豆社との協約成立。
バチスタは左手で顎をなでながら長官にたずねた。
「カンディディウスとは?」
「ジョルジウス・カンディディウス。変わり者の牧師だ。牧師の役割は、洋上では精神安定剤。任地では日曜礼拝要員。それでよい。しかし、彼は未開人の布教に血道を上げてな、我々とよくぶつかって、一旦はバタヴィアに送還した」
「ほう」
「しかしな、彼は大きな収穫ももたらした」
「収穫?」
「彼が福音を広めた蕃社(社=村落)はオランダに従順な村へと変貌するのだ。つまり、銃とバイブル。その二つが植民地支配の両輪であることを我々に気付かせてくれた」
「ふむ」
「オランダとシラヤ族が和平協議を結ぶ時に、族長らが求める仲介人はカンディディウス以外にいない」
「ほう」
「ところが、やっこさん、宣教費の増額を求めてそれはそれはうるさくてね。やれ教会堂だ、やれ牧師の増員だ。台湾経営がまだ始まったばかりだと言うのに、湯水のように金を使おうとする。それで私はここから追っ払ったんだよ。途端に原住民の暴動だ。それで三拝九拝。牧師に何通手紙を書いたことやら」
「なるほど。その牧師が今日、ご到着というわけですね」
「まず、蕃社征伐のためには、カンディディウス牧師をいかに利用するかだ」
「承知しました」
長官はちらりとバチスタを見て言った。
「大佐がこの有名人を知らないとは」
「失礼。無宗教ゆえ」
「ではその妻が誰かもご存じあるまい」
「どなたです?」
「サラ・スペックスだ」
「サラ・スペックス・・・あの?」
「そうだ。あのサラだ」
バチスタが珍しく驚きの表情をした。マラッカ諸島巡回の頃、切れ切れに伝わってきたバタヴィア情報。小さな欠片が集まって一つのモザイクとなり、バチスタの中に牧師とサラの面影をくっきりとさせた。
港がざわめき出した。長官が立ち上がって「船が到着したようですな」と窓を開けた途端、スコールが激しく降り出した。
夕方、ゼーランディア城で牧師夫妻の歓迎会が開かれた。
広間では長官はじめ要人達数十人が歓談していた。
「さあ、入ろうか」。隣で尻込みするサラを、夫は笑顔で励ました。
入室するや二人は拍手に包まれた。
「カンディディウス牧師!」
長官プットマンスが満面の笑みで駆け寄った。
「ご再訪、首を長くしてお待ちしておりました!」
カンディディウスは丁重に挨拶しつつ、心の中で苦笑した。―なんだ、この歓迎ぶりは。
長官が乾杯の音頭を取った。
「カンディディウス牧師様の御帰還と、ご夫人の来訪を祝って、乾杯!」
長官はバタヴィア勤務時代にヤックス・スペックスの部下であった。商務員補から2年で上級商務員に、その翌年、バタヴィア参事会主席、その2年後には第4代台湾長官に抜擢、と異例の出世を遂げた人物である。
長官は詫びるように牧師に言った。
「もっと盛大な宴を開きたかったのですが、なにせ海賊の動きが油断ならず・・本日も何隻も軍艦が出動していまして・・」
カンディディウスは乗船した船で海兵隊がいやに目についた事を思い出した。甲板に据えられた十門もの大砲は常に外界をにらんでいた。台湾海峡とその周辺には武装集団が跋扈する。夫妻の乗った船が海賊船から一度の襲撃も受けずに台南に入港できたのは僥倖であった。
長官はサラ・スペックスに向き直るとその手を取り、
「令夫人」と深々とお辞儀をした。
長官は、二人の顔を交互に見てから、
「サラ御令嬢がカンディディウス牧師のご夫人になられるとは!運命的ですなあ」と言い、サラの笑顔を曇らせた。
「いやはや、サラ様。お父上はわが社きっての総督でありました! そして、ご主人はわが社きっての宣教師! 」
そう言って、今度はカンディディウスを不快にさせた。
二人の表情など気にも留めず長官は続けた。
「台湾の宣教にとって、かけがえの無い方。将来、〝台湾宣教の父〟などと言われるでしょうなぁ 」
「長官! おやめください」
「ははは。相変わらず控え目な先生だ」。立腹寸前の牧師を今度はサラが手を握ってなだめた。
陽気に笑う長官の後ろには二人の知らない男が控えていた。長官は男を紹介した。
「こちらはバチスタ大佐。軍の総司令官として赴任された」
「バチスタ・デ・ブリエと申します」
夫妻は軍服がよく似あうその男を見た。鼻梁高く、そのため眼窩深く、ギリシャ彫刻を思わせ、日に焼けたその肌はアジアでの百戦錬磨を物語っていた。
「牧師のカンディディウスでございます」
握手した総司令官の右手はひんやりとしていた。サラは、握手をためらい、ドレスをつまむ挨拶をした。
そのあと、長官らの前を辞して二人はロベルツス・ユニウス牧師 Robertus Junius 註釈(18)のもとへやっと向かうことが出来た。
「カンディディウス様!またお目にかかれ 嬉しうございます!」
ユニウスとカンディディウスは固く抱き合った。
「奥様も遠路はるばる、よくいらっしゃいました!」
「ユニウス君、また来てしまったよ」
「来てしまっただなんて・・。シラヤ人がどんなに待ち望んでいた事か!」
バチスタ大佐は、遠ざかったカンディディウスをしげしげと眺めた。見るからに宗教家。峻厳なる宗教家のまなざしだ。使徒パウロ・・燃えるような宣教熱から1万キロの旅をしたという。パウロのまなざしはあんなだったかもしれんな。そんなことをふと思った。
次に、その傍らの夫人を観察した。
サラ・スペックス。あれが・・。クーンを亡き者にした女。西洋と東洋の血が半々。その珍しさが男を夢中にさせるのか、女に興味のないバチスタにはよく分からなかった。遠目でも女の物腰は控え目で優雅に見えた。―ただの若い女ではないか。ひどい烙印を押されたものだ。
バチスタの傍らで、長官プットマンスも二人を目で追っていた。
――それにしても驚いたな。カンディディウスを落としたのがサラだったとは!
バタヴィアの醜聞 ―サラ・ピーテル事件― は事件の直後すぐに商船で台湾商館に運ばれた。商船で到着した商務員や奥方の誰もが事件を語りたがった。ほとんどがあの広場の目撃者であった。ゼーランディア城は寄ると触るとその話でもちきりになったものだった。
長官はじっとりとした目でサラの後ろ姿を見た。ほっそりとしているのに、胸と尻の形の良いこと! おうおう、花も見ごろの・・。事件の時、サラは確か12。幼女にして妖女。性愛に溺れた男は首を斬られ、本人は死罪を免れたのち、総督クーンを呪い殺したのだったなぁ。総督の後釜に父を据えるとは、魔女でなくて何であろう。この女、それで終わらなかったぞ。今度は、神の御使いを骨抜きにしやがった。
――淫売め!
長官は下半身がうずくのを覚えた。そして、髪の毛を高く結ったサラの真っ白なうなじに舌なめずりした。魔性の女。二人の寝室にひそんで、寝屋の秘め事をこっそり覗いてみたいものだ。この貞淑そうな人妻が、その本性は寝床で体をくねらせることだろうよ。
サラは、ユニウス牧師との談笑の合間に長官プットマンスの視線に気付き、ぞっとした。長官だけではない。その隣の男もこちらを見ているらしい。見回すと広間のあちらこちらで紳士達が自分を盗み見ている事に気付いた。
ひととおりの挨拶と歓談を終えたあと、二人は早々に牧師館に戻った。牧師が妻の異変を察知したからだった。
その翌朝、ジョルジウスは長官の執務室に現れた。
朝の伝令のため政庁の幹部らとバチスタ大佐が同席していた。
「おぉ、牧師様。お疲れは取れましたか?」
「お心遣い、恐縮です」。礼をしつつ、「本日、新港 に向かわせて頂きます」と言った。
「なんですと・・。急な・・。まあまあ、待たれよ」
長官は慌てふためき、バチスタ以外を人払いした。
「折り入ってご相談がありますゆえ」
長官は牧師との膝詰め会談を予定していたのだった。
一方の牧師は、もう荷造りを終え、妻と新港に出発するところであった。
「しばらくはゼーランディア城におられるのだとばかり」
「いいえ、私の任地は新港でございます。信徒達も待っています」
「いやぁ、どうでしょう。奥様には原住民部落はお気の毒だ。しばらく安平に慣れてから行かれてはいかがか」
「いえ。妻も同じです」
「まあまあ、そうおっしゃらずに。牧師様とは重要なお話もございまして」
カンディディウスは溜息をついた。長官は ―ほうらね― と言う様に大佐に目配せした。
「牧師様。あの件をまずお話ししましょう」
「あの件?」
「はい。タカランの処遇の件です。それを最初に。そしてラメイ島侵攻の件はその後に」
長官は家臣に命じ、馬車の荷台から夫婦の荷物をもう一度牧師館に戻させた。
この日始まった三人の会談は、一週間にも及んだ。
長官はその結果を後日、バタヴィア政庁へ書き送った。
私達はタカラン(麻豆社の有力者)の日本訪問を阻止する為の最良の手段をカンディディウス牧師と非常に議論し、牧師がタカランの喜ぶ贈り物を幾つか進呈する事を決めました。同時にすぐに15隻の船隊でラメイ島に出航し、2、3か月以内に到着し島を討伐することが我々の意図である事をタカランに知らしめるつもりです。そしてカンディディウス牧師の仲介でタカランをラメイ島討伐の隊長に抜擢しようと思っております。その場合、(その名誉を)他の村の首長達が嫉妬せぬよう、他の村には秘密にしなければなりません。タカランがこの提案を拒否するとしたら、それは陰で中国人や日本人の策動があるからです。(略)
閣下は後日、カンディディウス牧師とこの問題について、あらゆる方面から議論できます。閣下は新港の人々が日本を訪問することが多くのトラブルを起こす事をよく御存知でしょう。タカランが日本へ行くような事があれば、治りかけの傷口が新たに開き、より悪化するのは必定です。(略)
カンディディウス牧師の台湾復帰が閣下にとって有益になるであろうことを我々は疑いません。(傍線は筆者)
1633年7月9日 ――ラモア島沖に停泊中の艦隊司令官らより、総督ヘンドリック・ブル-ワ-宛の書簡 『FORMOSA UNDER THE DUTCH』p106 Letter15
オランダ船が入港する遙か昔から日本船は台湾に自由に来航し、鎖国中の中国との中継貿易港として使っていた。オランダの台南支配以来、オランダが外国船に対し1割の関税を掛ける事に日本の商人は反発し、台湾政庁と敵対関係となった。1628年、長官ヌイツ時代に起きたタイオワン事件(高田弥兵衛事件)はその一例である。解決に貢献したのは、日本に熟知したヤックス・スペックスと、元平戸商館の雑用係で、平戸オランダ商館長となっていたフランソワ・カロンであったが、収拾に8年もの歳月を要した。台湾人が日本に招かれ歓待され、金品を贈与されて親日派(=反蘭派)になる事を政庁は恐れた。〝タカランの日本訪問を阻止〟というのはそういう意味である。
長官は書簡にはカンディディウスを頼もしい同志のように書いたが、実際は違う。三者会談の間中、カンディディウスは終始寡黙であった。帰還早々、政治に巻き込まれのは半ば想定済み。必要最小限の提言のみをし、あとはゼーランディア城からは離れたい、その一心であった。一日の会談を終える度に牧師は「では、以上で新港へ」と言い、長官は「いや、まだです」と引き留めた。
バチスタは、カンディディウスをじっくりと観察した。御しやすいユニウス牧師とは明らかに違っていた。まるでガレオン船の錨のような男だなと思った。
長官は次なる仕事 ――鄭芝龍との海戦―― へ向かう必要に迫られてから、ようやくカンディディウスを解放したが、今度は牧師仲間がカンディディウスのもとへ相談に訪れた。彼がゼーランディア城から解放されたのは台湾到着から半月後のことだった。
新港 社は台南安平からは馬車で4時間の距離である。牧師夫妻の馬車は前後に兵隊に護衛される形で台湾人街を抜け、川を渡り、草原を走った。サラは車窓から台湾の風景を食い入るように眺めた。夫は久々に妻の穏やかな顔を見た気がした。サラは、滞在中の教会に日々訪れるオランダ人への応対に神経をすり減らしていた。しばらく馬車が走った後で一言二言、つぶやくように言葉が出て来た。
「どのような・・方達ですか?」
「新港人かい?」
「ええ」
カンディディウスは静かに語ってきかせた。
「 平埔 族の中のシラヤ族と言われる人達だ。彼らは誇り高く、気立てが良い。見知らぬ人間にも友好的で、最初に会った時から私に食べ物や飲み物を分け与えてくれた」
サラは夫の肩にもたれて話を聞いた。
男は体格が良く、力強い。肌の色はインド人ほどではないが茶褐色だ。女は小さく、愛嬌があって働き者だ。肌の色は男よりも薄い。男は春、夏を半裸で過ごす。女は多少の衣をまとう。1日に2度温浴する習慣がある。母系社会で、結婚したあとも女は生まれた家に住む。結婚を申し込む手順は実に簡単だ。新港は先住民地域の中では開かれた場所で、新港を中心に私は福音の種を蒔いた。これから5年、10年とキリスト教が広まれば、いずれはオランダをも凌駕する神の国になると私は信じているよ。
静かな川辺で馬車の一行は休憩を取った。御者が馬に水を飲ませ、兵士や牧師夫婦も思い思いに川のほとりで体を休め軽食をとった。川向うには田畑が広がり、シラヤ族の女達が野良仕事をしていた。その傍らで、素っ裸の子供達が水牛の背にゆられていた。サラは澄み切った川に魚の群れが泳ぐのを見た。また、遠くの小高い丘に鹿の群れが走るのを見た。その度にサラは夫のもとに戻っては「魚が!」「鹿が!」と報告をした。再び馬車が走り、珍しい風景がサラの前に次々に展開していった。悪路で馬車が弾むたびにサラは歓声を上げた。
二人が新港に着いたのは夕方だった。二年前、悲しみの内に立ち去った教会が、そこにあった。窓に灯りがともっていた。可愛い声がしたかと思うと、小さな子供らが教会から飛び出してきた。
「牧師さーん!」「牧師さーん!」
その後ろからはその父や母が「牧師さまー」と言いながら駆け寄ってきた。
「 ルマ! ヤドゥラン! おお、長老まで!」
共に教会を作った人々であった。牧師夫婦が台湾に到着した日、兵士の一人がその知らせを持って新港へと馬を走らせた。人々はその日から二週間、一日千秋の思いで牧師を待っていたのである。
村人の中にひと際美しい女がいた。彼女 ― ヤスミン ― はジョルジウスがその昔、ひそかに結婚を考えた事のある ――台湾長官や総督が問題視した一件の――あの人物である。カンディディウスはヤスミンの隣りに精悍な青年が立っているのに気付いた。ヤスミンは既に身重だった。青年は、「ダナキランと申します」と恭しく挨拶をした。
サラは新港語で村人と自由に会話する夫をまぶしく仰ぎ見た。牧師は傍らの妻を皆に紹介した。
サラは、―はじめ・・まして― と、ぎこちない新港語で挨拶し、村人の笑いを誘った。
教会脇の兵舎からはオランダ兵たちが続々と現れた。兵舎の料理番を務める女たちが料理の盛られた大皿を持って現れ、教会の集会室でにわか歓迎会が始まった。
サラは食事を早めに済ませると、荷物の中から茶葉を取り出し、村の女たちと身振り手振りで話をし、また、きらきらした目でサラを見上げる子供らに声をかけ、菓子を上げ、ジョルジウスが村人達と旧交を温めているその傍らで、まるで籠から放たれた小鳥のように、茶碗に茶をいれては老人たちに勧め、人から人へ、台所へと忙しく飛び回るのだった。
暗くなる頃に村人達は松明を掲げて帰っていった。
ようやく、長くめまぐるしい一日が終わった。
暗闇と静寂が二人を包み始めた。
ジョルジウスが入植し、親蘭派も多くなったこの地域には手厚い警護はさほど必要なかった。門前には常時警備兵四人が立つが、夜中の警備は二人にしてあとは宿舎に帰らせた。
ようやく寝床に入ると、 台湾 の密林の中で二人きりになったのを実感した。真暗闇の中を木々がざわめき、雨がサーッと降ったかと思うとたちまち止んで、今度は遠くから獣の鳴き声が高く響いた。
「随分遠くに来たね」
ジョルジウスはそう言ってサラの頭をなでた。
「ええ」
堅牢なバタヴィア城の中で育ったサラが、片田舎の一軒家に恐怖しないはずがない。ジョルジウスはそう思った。サラは夫の胸にすっぽりとおさまる様にして眠った。
トシがジョルジウスに伝えたことがあった。
――お嬢様には 夜驚 があります。
――それは突然起こります。大きな物音がした時に。そうかと思えば、何もない時でも、真夜中に突然泣き叫び身悶えなさることがあるのです。お可哀想に。どうぞ、お憐れみ下さい。本人は何も覚えておりません。
初めてサラの素肌に触れた時のことだった。彼の指がサラの背中に触れると、サラは息を止めた。彼の指が幾つもの裂傷に触れた。それは縦に、斜めに、背中にくっきりと残る傷跡だった。ジョルジウスは、サラの、ひび割れたガラス細工のような、か細い体を包み込むように抱きしめたものだった。
新港社での、この最初の夜、ジョルジウスはイエスの話を胸の中で思い出していた。
夜明けに、イエスは、再び神殿に現れた。
すべての人々が彼の許に来た。彼は坐り、教えはじめた。
そこへ、律法学者とファリザイ人たちとが、姦淫の現場で捕えられた一人の女を連れて来た。人々の真中に立たせるとイエスに言った。
「先生、この女は、姦淫の現場で取り押えられたのです。モーゼは律法の中で、このような女は石で打ち殺せ、と命じましたが、あなたは何と仰せになりますか」
彼らがそう言ったのは、イエスを訴えるための落し穴を作るためであった。
イエスは身をかがめ、地面に指で何かを書き始めた。
彼らがしつこく問いつづけると、立ち上がって彼らに言った。
「あなたたちのうち、罪を犯した事のない者から石を投げなさい」
そして再び身をかがめ、地面にものを書き始めた。
イエスの言葉をきくと、年寄りから始まり、一人また一人と立ち去って行った。そしてイエスとその女だけが残された。
その時、イエスは身を起こして女に言った。
「女よ、みんなは何処に居る? 誰もお前を罪に定めなかったのか」
女は言った。
「はい。誰も」
イエスは言った。
「私もお前を罪に定めない。行きなさい。これからは罪を犯さぬように」 (ヨハネ伝8章)
この夜、サラも又、すぐには寝つけなかった。
なんという暗闇。なんという静寂。時折高く響く野獣の鳴き声。けれど不思議に怖さは感じなかった。昼間の風景を思い出すと自然に笑みがこぼれた。美しい山と川。小魚の群れと飛ぶように走っていた鹿の群れ。また、サラは村人の日焼けした顔を思い出した。飾り気のない笑顔と健康な肉体。体を隠すだけの衣服。そこには、刺すような視線は一つもなかった。
――ここで私は新しい人になるんだ。生まれ変わって新しい人になるんだ。
サラの心は幸せでいっぱいになり、ジョルジウスの腕の中でゆっくりと眠りに落ちていった。
そしてジョルジウスが新妻を起こしに来るまで、こんこんと眠り続けたのだった。
「お寝坊さん、もう朝だよ」
夫が笑いながらカーテンを開けると、緑の木漏れ日が部屋中を満たした。